7月10日の日記「マゾヒストの芸術家」

 朝方は相変わらず曇っていたが午後になると晴れ始めた。久しぶりに相見えた太陽に心は自然と高揚し、額や鼻の先をその光と熱に晒しながらいつもより余計に街の中を街の外を歩き回った。  マゾヒズムには大別して二種類あり、衣装を剥ぎ取って欲しいと願望する正統なマゾヒストと逆に衣装を着せて欲しいと願望する異端のマゾヒストがあることは昨日と一昨日の日記に於いて説明した。では芸術家たり得るのはどちらのマゾヒストかというとそれは当然正統なマゾヒストの方である。  裸の自分に衣装を着せて欲しいと願う異端のマゾヒストは言い換えるならば自分を再創造して欲しいと願う人間の事であり、創られたいと望む人間が何かを自ら創り出す事は出来ない(そんなあくまでも受動的な大衆の集団意識の願望が一人の創造者を産み出すと考えるならば異端のマゾヒストこそ創造者である)。  一方、纏い込んだ衣装を剥ぎ取って欲しいと願う正統なマゾヒストも同じように言い換えると、それは創造された自分を解体して欲しいと願う人間だと言えて、これの方もあくまでその態度は受動的で、そのままでは芸術作品の創造者たりえない。しかしながら彼が生きる社会という場の条件がその芸術を可能にする。凡そ社会に於いては彼をその衣装から解放してくれる人間及び自然はほとんど皆無である。それは社会というものが幾重にも重なった強大強固な観念の衣装であるからで、彼が本当に裸になるためにはその社会という衣装ごと引き裂かなければならない。だが、それはほとんど不可能である。故に彼、正統なマゾヒストは充たされる事のない欲求を抱え続けなければならない。そうしていつからか彼は女や自然を絵に描き始める。現実には実現される事のないマゾヒストの物語を小説に書き始める。自らの衣装を剥ぎ取り自らを解体してくれる破壊者を彼は自らの手で想像し創造するのだ。