他人という神

 我思う故に我在り。私は認識している。だから私は存在している。このデカルト流「私」の存在根拠も私の中の他者の発見によって根本的に揺らいでしまった。それはつまり我思う(認識している者)と我在り(認識を認識している者)は別の存在だということだ。精神分析学で言うなら無意識の発見。我思う、その我は確かに存在している。私の中の他者、無意識、肉体は確かに存在している。「私」がその証人だ。ではその「私」認識の認識者が存在していることは一体誰が証明する?神は死んだ(らしい)。ならば他人しかいない。他人こそ「私」の存在の証言者だ。「私」は他人に見られているときだけ存在し、更には見られているように存在する。
 かくして「他人」が絶対者神の代わりを為すようになった。すると当然「私」はその絶対神「他人」を恐れしかしその「他人」を求めずにはいられないという引き裂かれの混沌とした状況になる。ごくありきたりな愛されたい、認められたいという願望からサディストとマゾヒストの関係までその度合いは人によって違うだろうが、皆求めているのは同じに「他人」による「私」という存在の確かな証明である。しかし同時に「他人」は恐ろしい。それは彼に裁きを下す者である。もし「他人」が彼を悪人と言ったら彼は悪人になってしまう。「私」に「私」を規定する根拠はないのだからそれはそうなる。だから出来るならそんな危険な「他人」は極力避けたい。しかしやはり孤独になってしまっては「私」の存在を証明してくれる存在が居なくなる。だから結局「他人」から離れられない。