単純な認識。その認識に対する認識。しかし思考、思考と呼ぶのに値する思考は認識に対する認識をまた更に認識する主体の認識だと言える。ヴァレリーの若きパルクの己を噛む蛇を見ている我の意識である。それは私の中の他者の認識でもなく私の認識でもなく私の外の他者の認識である。それこそたとえばヴァレリーのたとえば三島の、つまりは批評家としての意識である。古典派と呼ばれる作家たちはきっとその私の外の他者によって思考し作品を創り出していくのだ。一方、浪漫派と呼ばれる作家たちは私の中の他者、その意識を蘇らせ、その認識と衝動によって作品を創り出していく人々のことだと思われる。