ヴァレリーの和解

 ヴァレリーの詩を読み始めた頃、この人は決して眠ることの出来ない人だったのではないかと、彼の微睡み睡眠への憧憬を直感的に感じ取ったのだが、その感想は今も変わることなくむしろそれは強化されて、ヴァレリーにとって詩こそ覚醒、目覚めの極点の後に訪れる微睡み睡眠の言葉だったのではないかというのが今の私の彼の詩に対する解釈である。微睡み睡眠、つまりは認識者と世界との和解による完全な認識を求めながら彼はシュールレアリストたちのように無意識の夜へ退行することがなかった。完全な認識、微睡み睡眠をもたらしてくれる夜がその背後ではなく前方に、つまり真昼の太陽、覚醒、目覚めの極点を経た夕焼、その先にしかないという法則を彼は知っていたのだ。認識の彼方へ。思考の彼方へ。生きることの極限へ。その姿は三島由紀夫その人の生き方、認識に対する態度とも重なる。素朴な愚かさと英知の果てにある愚かさは違う。朝焼けは美しい。しかし夕焼けはもっと更に美しいのだ。

 陶酔がもたらす認識の欠落、無認識への退行ではなく認識の極限、認識の過剰さその飽和がもたらす認識の自殺。真昼の闇を経た後の夕焼け。それこそヴァレリーに訪れた世界との和解、ヴァレリーの詩なのだと思う。しかし認識するということはただ頭で考えるということでは不足で純粋に現在の生を追求するということだから、認識の極限まで行くには現在を生きることの極限まで行かねばならない。未来を犠牲にした今この瞬間の連続する時間の外側を認識する時間、完全なる遊戯の時間が必要なのである。それこそ彼が公表しないことを前提につまりは未来を犠牲にして毎朝何時間とそれを何十年と書き続けたカイエであり、そのカイエを書くために続けられた思索の時間だったのではないかと予想する。何のためでもない目的としての思索。だからこそ一つに重なる生きることと考えること。