強迫観念

 人は継続して意識し続ける対象から現実感を享受し、その果実がたとえ有毒であっても、まるでたかる蠅のように、その果実を求めそこから離れられなくなる。いわゆる強迫観念と呼ばれるものもそこに萌芽する。
 不安や憂鬱、そんな忌むべき暗い感情もそこに長く意識が滞在すればするほど彼にとってその暗い感情自体が彼に現実感をもたらしてくれる類稀な果実となり、だから彼は自分を苦しめるとわかっていながら逆らうことが出来ずその毒の実を貪り続ける。何か材料があるときはもちろんその材料を用いて、材料の何もないときは自ら材料をこしらえて、彼は彼に現実感を与えてくれる唯一の果実、憂鬱や不安、暗い感情を味わい続ける。そうしていくうちにその暗い感情は彼にとっての阿片となり、もう自分ではどうしようもないほど彼はその感情に支配されていく。見続けるものが彼にとっての現実となる。それは感情というものも例外ではない。憂鬱や不安を見続けていくうちに彼自体が憂鬱や不安へと化身するのである。
 更に人は彼に現実感を与えてくれるその果実に価値を見出すようになる。暗い感情に浸り続ける人にとっては暗い感情が神となる。しかしその神は存在根拠があやふやで、だからその神を絶対の神とするために悪魔が必要となる。暗い人たちにとって悪魔は何の不安も憂鬱も抱えていないいわゆる明るい脳天気な人たちである。だから往々にして暗い人たちは彼らを蔑み馬鹿にする。彼は太陽を憎悪し、もはや蝙蝠となった彼は夜を礼賛し、そんな闇の深淵に彩られたものしか愛することが出来なくなる。そうしてその暗い感情が彼のなかでまた揺るぎのない確かな現実となっていく。
 しかし、実際、憂鬱や不安なんて神であるどころか何の価値もない。苦悩の顔など浅ましく卑猥な顔だ。私は認めない。名誉棄損する。暗い感情と決別するにはまずそこから始めなければならない。如何なる状況であれ自分は自分自身の意思によって憂鬱や不安、毒の果実を味わっているのだということを意識する。そしてそこから意識を外す。暗い感情は破棄する。夜の闇はもう二度と見ない。私は私の見たいものだけを見る。日向に咲くひまわりのように。私は燦燦と輝く太陽だけを見続ける。繰り返し、繰り返し。最後の一滴まで夜が焼き滅ぼされ、真昼が私の現実となるその日まで。これは自由になるための訓練であり戦闘だ。