窓の外のひまわり

 酷い憂鬱と倦怠に包まれている。憂鬱がみしみしと身体を圧迫する。一歩たりとも動けない。硬い床の上に横たわっている。蝉の声が遠くに聞こえる。また更にみしみと身体が圧迫される。衝動的に自分の身体を引き裂いてしまいそうだ。そうしたら何かが出ていくだろう。少しは楽になるだろう。この憂鬱の正体は血か?血を流せば血を吐きだせば楽になるのか。ナイフが欲しい。だが、ナイフを手に入れる気力すらない。仕方がない。煙草で我慢する。血の代わり白い煙を吐き出す。少し楽になる。これが赤い煙だったらもっと楽になるだろう。遠くで蝉の声が聞こえる。部屋の外にはきっと太陽が輝いている。俺は絵を描き始める。最初は慎重に丁寧に描いていた。だが途中で色鉛筆を持つ右手は殆ど痙攣的な動きとなり、視線の焦点が合わなくなってくる。待て。冷静になれ。もっと良く見るんだ。少し待て。止まれ。だが俺の右手は片時も止まらない。鉛筆の芯が折れる。俺ははっと我に返る。目の前に酷い絵がある。酷く歪んだ絵がある。俺はまた更に憂鬱となった。絵を描く前とは比較出来ない程の憂鬱さだ。俺は絵を投げ出して煙草を吸う。酷い憂鬱に陰惨さが加わる。陰惨な憂鬱。いくら煙を吐いてもそれは消えない。みしみしと身体が圧迫される。絵が目に入る。煙草を喫っているのも忘れて俺はまたその絵の続きを書き始める。
 結局、何がしたいんだ。俺は窓が欲しいんだ。俺は自分で自分の窓をつくっているのだ。だが、余りにも窓が欲しい気持ちが強い故に俺がつくる窓はいつも酷く歪んだものになってしまう。外を見る事の出来ない壊れた窓がばらばらと俺の部屋中に転がっている。酷く陰惨な憂鬱が転がっている。俺の欲望と希求の死体が転がっている。
 男が女とセックスするのも同じだろう。男にとって女の身体に空いているあの穴は窓なんだ。彼はありったけの自分をそのペニスに集中勃起させてその窓の中に突っ込む。あの窓の外に行きたい。この観念の外側に行きたい。何度も何度も彼はペニスをその暗い穴の中に擦り付けるだろう。で、イってしまう。確かに彼は窓の外へ行けただろう。彼の真っ白な精子は無事現実に辿り着けた筈だ。しかし身体の方に残された彼は窓の前に留まっている。結局、彼は窓の外に行くことが出来なかった。限りなく現実へと近付きながら彼は現実には行けなかった。恐ろしい倦怠と空虚感が彼を襲う。回復するには時間が掛かる事だろう。一番良いのは腹上死する事だ。イクのと同時に本当に逝ってしまう事だ。そうすれば彼は本当に完全に窓の外へと行く事が出来る。残されるのは彼の死体だけだ。誰でも一回は憧れた事があるんじゃないのか、腹上死。何もセックスだけじゃない。絵を描きながら死ぬとか。踊りながら死ぬとか。言うなればつまり祭りの絶頂の最中に死ぬって事だ。祭りっていうのは窓なんだ。その村全体、国全体が窓になるんだ。窓の外の現実が限りなく自分たちのもとへと近付いて来る日。一番幸福な死に方とはそうして祭りの絶頂の最中に死ぬ事なんじゃないか?完全に窓が塞がれている病院の白いベッドの上で衰弱して死ぬのが幸福なのか?古代や中世の男たちが戦に明け暮れていたのは戦が彼等の窓だったからだ。その戦場で死ぬ事は彼等の本望だっただろう。彼等は窓の外に行けたんだ。男とは窓の外に行きたい生き物なんだ。いつも自分に相応しい死に場所=窓を求めているのが男なんだ。
 蝉がまだ鳴いている。片時も鳴き止まない。鳴いているのは雄だろう。男だろう。彼は何故鳴いている?雌の蝉に彼を挿入したいからだ。彼も窓の外に行きたくてあんなに激しく鳴いているのだ。あんなに小さい蝉の雄も観念の内側に生きているのだ。俺の憂鬱とは比較できない程彼は憂鬱なんだ。自分の身を粉にして鳴き続けなければならない程彼は酷く陰惨な憂鬱に包まれているんだ。しかし窓に辿り着けるのは数限られた蝉だろう。窓へと辿り着けずに死んでいく蝉が殆どだろう。だが彼等は窓へと向かうその最中に死んだんだ。セックスの最中に死んだんだ。祭りの絶頂の最中に死んだんだ。結局、彼等は窓の外へ行けたのだ。夏という巨大な窓は一匹残さず彼等を窓の外にある現実へと連れていく。
 嗚呼、狂いそうだ。狂ってしまいそうだ。窓の外に行きたい。部屋にある窓、そんなものは偽物の窓だ。それはただのガラスの板だ。透けて見えるのはただの観念だ。観念に包まれた街の姿だ。現実は見えない。現実へは行けない。偽物の窓だ。鬱陶しい。こんなもの叩き壊してしまいたい。外に出よう。外を歩けば少し楽になるだろう。少しは本当の窓に近付ける事だろう。
 俺は白いTシャツとジーンズを着て外に出た。髪はぼさぼさだ。髭も剃っていない。瞳はきっと左右に落ち着かなくぎらぎらしているだろう。まるで異常者だ。夏に発生する異常者だ。まるでゴッホだ。俺はゴッホのように街をふらふらと歩き回る。太陽の禍々しい熱線。太陽の国日本を探し求めて野原を歩き回ったゴッホのように街を歩き回る。彼も窓を探し続けていたんだ。酷く陰惨な憂鬱、言い換えるなら完全な孤独を抱えて窓を探していたんだ。彼は絵を描いている最中にそのまま失神する事が多々あった。そのまま死ねば彼は窓の外へ行けただろう。だが、彼は無残にも復活してきた。また更に酷く陰惨な憂鬱を抱えて野原を歩き回り窓を探し続けなければならなかった。それでも足りなかった。彼は自分の片耳を切り裂いて自分に窓をつくった。しかしそれでも足りなかった。ついに彼はピストルを撃って自分の胸に窓を開けてしまった。そうして彼は窓の外へと行ってしまった。だが、ゴッホは誤解していた。この我が国日本は太陽の国なんかじゃない。窓の外の国なんかじゃない。他のどんな民族よりも太陽に憧れている民族なんだ。窓の外に憧れ続ける人々の国なんだ。自分の腹を刀で引き裂いて窓をつくる位に窓の外へ行きたかったんだ。太陽が眩しかったんだ。日本の芸術はみんなそんな太陽への憧れによって出来ている。光のみによって描かれている。窓の外だけを描いている。だからゴッホは誤解した。日本人の憧れを見てその憧れ自体が日本だと思ってしまった。しかしそれは美しい誤解だ。美しい誤解というものがあるのだ。ゴッホは日本人だった。俺の部屋の白い壁にはゴッホのひまわりが飾られている。水色の壁の前、花瓶に挿された黄色いひまわり。それは窓から見える太陽そのものだ。
 鉄の街。鉄以上に強固な観念に包囲されている街。窓なんて一つもない。全て塞がれている。当たり前だ。これは一個の船の底なのだから。船側や船底に穴が開いていたら大変だ。船は沈んでしまう。穴から海が入り込んで来て船は沈んでしまう。だが、俺が見たいのは海なのだ。この手に触れたいのは海なのだ。海が見える窓が欲しいのだ。俺は一匹の魚なのだ。海豚なのだ。人魚なのだ。海の水がないと苦しくて死んでしまうのだ。俺が死ぬのか、船が沈むのか。俺はこの船に穴を開ける。俺はこの船に窓をつくる。絶対に沈まないこの船を海に沈めてやる。俺は書く。俺は描く。俺は歌う。それがこの船に穴を開ける俺の武器だ。
 しかし、この街にも一つだけ窓はあった。しかも信じ難い程の広大無辺さ。それは空だった。大空だった。この街の上は遍くその青い窓に頭上を覆われていた。コンビニの焼けるように熱い駐車場の上に立ち止まって俺はその窓を見詰めた。肌と瞳を焼く焼き尽くす禍々しい聖なる太陽がその中央に鎮座していた。あれこそ窓の外にある現実そのものなのだ。あれこそゴッホのひまわりなのだ。だが、その窓は余りにも高く遠過ぎて、俺の背中に羽根なんかは無かった。俺は鳥ではなく地を這いつくばる惨めな人間だった。悲しい程に酷く陰惨な憂鬱を抱えた人間だった。まだ蝉が鳴いている。膨大な蝉がまだ鳴いている。おい、やめろ。もう鳴くな、蝉。お前たちには羽根があるだろう。騙されるな。本当の窓はあそこにある。飛んで行くんだ蝉。太陽に向かって飛んでいけ蝉。