夏がやってきた日

 朝目覚めると窓の外は既に熱気を孕んだ眩しい光に包まれていた。雀たちの鳴き声、近所の家から車が発進する音も聞こえる。まるでこれから友人たちと車で海へ出掛けて行くような爽やかさ。こんな夏の朝を待っていた。真っ白な牛乳を飲んで食パンを齧る。
 じんわりと少しずつ部屋の中が温まっていく。部屋にある二つの窓からは乾いた風が止め処無く吹いてくる。白いレースカーテンがスカートのように膨らむ。私は鉛筆を握って原稿用紙に小説を書いている。怖いくらいに筆が進む。ほとんど完璧に近い形で言葉や次の場面が頭へと浮かんで来る。
 小説は一段落着いた。肘掛椅子に深く腰を掛けて煙草を喫う。天井に吸い込まれていく白い煙、恐ろしくなる程の充溢感に私は包まれている。私は充ちている。充ち溢れている。口から白い煙を吐き出さなければならない程に充ち溢れている。それでも足りない。赤いノートを取り出すと私は絵を描き始めた。今書いている小説に登場する女と犬の絵だ。鉛筆の芯の先を紙に擦り付ける。今書いている小説の表紙も自分で描きたい。きっと描けるだろう。出版される事など夢のまた夢だが。煙草は既に灰になった。もう吸わない。吸う必要がない。窓の外からヴァイオリンの音が聞こえる。胸が苦しくなるような音色。胸が苦しい。私は充ち溢れている。一つ呼吸する度に部屋の空気に溶け込んでいる光と熱、夏の太陽そのものが私の口から胸に入り込む。何かせずにはいられない。人間は欠落からのみ行動するのではない。充溢の行動学というのもあるのだ。それは熱帯の情熱だ。実存そのものの烈しい太陽。彼は踊らずにはいられない。彼女は歌わずにはいられない。太陽に心臓を捧げた人々の気持ちが分かる。キュベレーの神官たちは自らの性器を切り落とした。ゴッホはその片耳を切り落とした。さて、私は何を切り落とそう。ヴァイオリンの音がまた一段と激しくなった。まるで官能の鋭い呻き声。彼女もまた弾かずにはいられないのだろう。彼女はきっと片方の手首に白い繃帯を巻いている。
 茶色の猫がゆっくりと私の前を通り過ぎた。眠そうな顔をして廊下の方へ歩いていった。トイレだろうか。それともお昼だろうか。時間が経過するのが酷く遅く感じる。時計の針が怠けているようだ。猫がゆっくりと私の前を通り過ぎる。お昼だったようだ。相変わらず眠そうな顔をしている。
 お昼を過ぎた。しかし、私は空腹を感じない。私は充ちている。充溢しているとき、私はほとんど腹が減らない。ものを食べたいと思わない。そんなものでこの充溢感を汚したくない。食べ過ぎる者は欠落しているのだ。彼らはもっと太陽を浴びるべきだ。太陽を食べるのだ。そうすればきっと食欲は鎮まるだろう。しかし、私はお腹が空いた。外に出よう。太陽を食べにいこう。私は浴衣に着替えて家の外に出た。服装のマナーは守らなければならない。
 からころ、からころ、下駄が鳴る。街のあらゆるものが太陽の強い光と熱に包まれている。擦れ違う人々は皆東洋人のように目を細め白い歯を剥きだしていた。私も同じだ。空を見上げて歩く。青い空の上に白い雲が浮いている。くっきりと陰影深いリアルな雲だ。きっと本物の雲だろう。今日は本物の雲が見える日なのだ。
 小さな売店が見える。手動のガラスドアの向こうに少し薄暗い店内が見える。背の低いお婆さんが団扇を仰いでテレビを見ている。店の中に入って来た私と目が合う。「あら、浴衣なんて粋じゃない」褒められて私は喜ぶ。でも粋とはなんだ?九鬼周造のいきの構造は読んだ事ない。でも何となく分かる。それは今日の街中に吹き荒れている。私はラムネを見つけて手に取る。ひんやりして気持ちが良い。これは粋の部類に入れても良い。ラムネを買って私は小さな売店を出た。
 からころ、からころ、下駄が鳴る。ラムネを入れた白い袋が光っている。ラムネは袋から頭だけ出している。これを何処で飲もうか。公園が良い。どの公園が良いだろうか。あまり行った事のない公園が良い。私は大通りから小さな道へと入っていった。
 閑静な住宅街。広い庭に白いネットを張って沢山のゴーヤを植えている家があった。ゴーヤはまだ小さかった。でも葉っぱはどれも巨人の手のように大きく、陽を浴びてきらきらと光っていた。
 公園が見えた。巨大な桜に囲われている広い公園。入り口に付近には花壇が造られ、深い紫色をしたコリウスの葉が毒々しい程色鮮やかに浮いている。その脇には青いサルビアの花も植えられていた。そこから先はささやかな緑の草原になっている。絶え間なく吹く風に撫でられて緑の水面のように揺れているその上をひらひらと黒い揚羽蝶が優雅に飛び回っている。その先は公園の遊具が置かれている子供の遊び場で、螺旋状にくねり回る赤い滑り台、大中小三種類の鉄棒、風に揺れている無人のブランコ、更にはうんていがあって、そのうんていに小さな女の子がぶら下がっている。公園の向こう側は砂が敷き詰められた広いグランドだ。しかし、誰もいない。陽を浴びてグランドは白く眩しい。
 子供の遊び場の前のベンチに座った。目の前で女の子がうんていをしている。「おとおさん。見て見て」良く見ると遊び場の向こう側のベンチにキャップ帽を被った若い男が座っている。でも女の子はいつも三本目のうんていの棒のところで力尽き落ちてしまうのだった。尻餅をつく度にこちらを見詰める。ラムネを片手に持った私を見詰める。そうだ、ラムネを飲もう。私はラムネの蓋の周りの包装フィルムを剥がした。するとビー玉を押し出す為の栓が転がり落ちてしまった。畜生め。私はベンチから降りて栓を探す。すぐに見付かった。顔を上げるとまだ女の子が見ている。恥ずかしいところを見られてしまった。私はまたベンチに腰掛ける。『栓をすぐに外すとサイダーが飛び出してくるので少し待ちましょう』誰かが言っていた事を思い出す。私はビー玉を栓で押して、そのまま押さえ込んだ。栓のとビンの隙間からサイダーが飛び出して私の顔や指を濡らした。畜生め。すぐに栓を外せば良かった。顔がべとべとして気持ちが悪い。何となく私は前を見た。まだ女の子が見ている。また恥ずかしいところを見られてしまった。「おとおさん。見て見て」
 サイダーは生温かった。更にはビー玉がビンに引っ掛かって上手に飲めない。何度やっても少しずつしか飲めない。気が付くとうんていの女の子は居なくなっていた。遊び場の向こう側のベンチでお父さんと一緒に座っている。ラムネをねだっているのかもしれない。気が付くと手の甲にとても小さな蠅がとまっている。私の手の甲にかかったサイダーを飲んでいるのだ。ああそうかい、気の済むまで飲むが良いさ。私はサイダーを飲む蠅を観察する。人間業とは思えない程精巧で緻密な蠅の身体、瞳はエメラルド色に煌き、透明な羽根は虹色に光っている。美しいひとつの奇跡。そんな奇跡が今私の手の甲でサイダーを飲んでいる。しかし彼も手がべとべとしていやらしい。手の平を器用に擦ってそのべとべとを落とそうとしている。
 そのまま暫くの間私は小さなその蠅にサイダーを飲ませていた。それは余程美味しいらしく、蠅はいつまで経っても飛んで行こうとしなかった。そのままずっと飲ませてあげたかった。しかし一匹の蚊が私の腕にとまり、それは二匹三匹と増えていった。そろそろ潮時だ。蚊に刺されるのを我慢出来る程まだ私は粋じゃない。永井荷風の墨東奇譚に出てきたあのどぶ沿いにある蚊だらけの娼館にはまだ行けそうにない。私は手を軽く振って蠅と蚊を払った。さて、行こう。するとまた蠅が手の甲にとまった。余程サイダーの味が気に入ったらしい。何度振り払っても私の手の甲にとまってくる。仕方なく、私はまたベンチに腰を掛けた。蠅にサイダーを飲ませ、蚊に赤い血を吸わせた。しかし既に私は不快ではなかった。夏がやって来たのだ。ここに夏がやって来たのだ。