宿命論

 煙草を買う為に家から歩いて近所のコンビニへと行く。十分少々のその時間の内に私は道で十匹を超える蝉の死骸を目にした。空へと両手両足を伸ばしたまま枯死している彼、滅茶苦茶に踏み潰されてコンクリートの地面と殆ど一体化している彼。もう既に八月も後半だ。もう既に数え切れないほど夥しい数の彼の死を私はボロボロのスニーカーを履いて通り抜けて来た。これ程までに死というものが強制的に意識の中に入ってくる季節は夏を置いて他に無い。しかしこれ程までに生というものが眩しく輝いている季節もまた夏を置いて他に無い。誰のせいだ?太陽のせいだ。太陽のくちづけが生と死のコントラストを大地の上に色濃く焼き付けているのだ。
 宗教家や道徳家、或いは精神科医脳科学者はこんな夏という状態を否定するのだろう。例えば、命を燃やして鳴き続ける蝉に対して宗教家は「鳴く事に囚われてはいけません。それは煩悩です。それは地獄です。」などと言うだろう。道徳家ならば顔を醜くしかめて「鳴く事自体は悪ではありません。しかし鳴き過ぎる事は悪です。自分を律しなければなりません」と言うだろうし、精神科医の先生ならば「貴方は強迫症ですね。鳴くという行為に依存しているのです。それに対する最も的確な療法は」と始まるだろうし、脳科学者ならば「それは脳内物質のバランスの乱れです。」などと説明するだろう。蝉たちは幸福だ。蝉たちはこんな奴等を相手にしなくて済むのだから。
 彼等は一見すると各々別な事を言っているように見える。しかし彼等が目指している人間の状態は共通して一つだ。それは幸福である。人間の幸福、それはつまり心や精神の平安と安寧である。憤怒や苦悩、あらゆる感情や欲望に縛られる事の無い自由な境地を彼等は目指しているのだ。感情や欲望はあっても良い。しかしそれらはコントロールされなくてはならない。蝉は鳴いても良い。しかし鳴く事に心を縛られている状態は苦しいものだ。煩悩の状態だ。地獄の境涯だ。鳴く事はコントロールされねばならない。鳴く事は息抜きなのだ。日常だけでは疲弊してしまう。だから鳴く事は必要である。鳴く事はレジャーだ。鳴く事はストレス発散だ。日常の平安と安寧を維持していく為にそれは必要なものだろう。だから適度に鳴けば良い。しかし間違っても鳴く事が生きる事などと考えてはいけない。鳴く事を目標にしてはいけない。それは悪だ。それは地獄だ。それは死を齎す。過剰は死を齎す。だから夏は忌むべき季節だ。あの禍々しい太陽は覆い隠さなければならない。我々が目指すべきは冬に輝く太陽だ。あの永遠の光だけを目指さなければならない。言葉によって全てを支配しなければならない。それが人間だ。それが神に至る道だ。それがヒューマニズムだ。言い換えれば人形主義だ。家畜の幸福論だ。
 確かに。蝉たちは苦しいだろう。自分の生命を燃やしているのだ。苦しくない筈が無い。ライターの火に少し触れるだけでも指は耐え難い苦痛に包まれる。蝉たちは生命を燃やしているのだ。それは想像を絶する苦痛だ。今もほら、生命が真っ赤な炎に燃える、その爆音が私の部屋の壁を突き破って私の耳に聞こえる。炎が炎に飛び火する。私は胸が苦しい。私の生命までもが燃え始めてしまった。だから苦しい。だからこの文章を書いている。書きたくて書いている訳じゃない。書かざる負えないのだ。蝉たちも同じだ。彼等は鳴きたいから鳴いているのではない。蝉たちは鳴かざる負えないのだ。彼等に選択の余地など無い。蝉たちは鳴く事に縛られている。完全に奴隷だ。鳴く事は蝉の宿命なのだ。彼等は己自身の宿命を生きている。
 宿命。それは避ける事の出来ないものである。宿命。命が宿ると書く。つまり生きているものという事である。生きるとは避ける事の出来ないものを背負うという事なのだ。蝉が死ぬまで鳴き続ける事なのだ。宗教家や道徳家たちはその宿命からの解放を訴える。彼等が目指すのは石だ。もはや何事にも左右されない不動の石だ。古来、人類は石に憧れを抱いてきた。石の平安を求めて来たのだ。しかしそれは死だ。死物だ。生命として誕生しながらなぜ石にならなければならない?死体として生きる事に何の価値がある?死体になるのは死んでからで良い。生きている以上は生きなければならない。生きるという事は生命を燃やす事だ。蝉の様に鳴き続ける事だ。太陽は今も燃えている。太陽は今も赤い血を流している。その生命の輝きによって我々は存在している。太陽は生命そのものだ。太陽は宿命そのものだ。太陽の子である我らは皆宿命の子である。でありながら太陽と対極にある石を目指すとは何たる大罪だろう。太陽に習わなければならない。太陽のように自分の生命を爆発させねばならない。蝉のように死ぬ迄歌い続けなければならない。苦しまなければならない。もし苦しんでいる人がいるならばその人は燃えているのだ。その人は輝いているのだ。ただその生命の目くるめく輝きを自分では見る事が出来ない。自分では感じる事が出来ない。そんな余裕は彼に無いのだ。蝉にそんな余裕は無いのだ。本当に生きている者は生きているという事を実感出来ないのだ。エリ・エリ・レマ・サバクタニ。「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」十字架の上でイエスはそう叫んだ。苦悩と苦痛の頂上でそう叫んだ。もはやこの瞬間イエスは己の生命を燃やす炎のそのものになってしまった。炎である彼に炎は見えなくなってしまった。完全な存在となったイエスに完全な存在の姿は見えなくなってしまった。しかしその炎が焼き付いた十字架の輝きはその後何千年にも渡って人々を照らし続けたのだ。エリ・エリ・レマ・サバクタニエリ・エリ・レマ・サバクタニ。蝉たちの鳴き声がその言葉に聞こえる。その絶唱と絶叫が薄暗い私の部屋を照らし出している。
 彼はそうせざる負えなかった。たとえその結果に破滅の崖が待っている事が分かっていても彼はそこへと歩いて行かざる負えなかった。抗い難い感情。抗い難い欲望。それが彼の宿命だからだ。同時にそれは悲劇だ。古来からそんな悲劇、悲劇の物語が人類の心を奪い続けてきたのは生産とその安定を第一とする社会の中で半ば石と化してしまった人々が自分に失われてしまった生命の輝きを見たいと願った結果なのである。彼等は燃える生命を見たかった。太陽そのものを見たかった。美しさとはすべて太陽の熱なのである。石は確かに綺麗だ。だが、美しさはない。死物に美しさはない。美しさは生命だけが持っている。燃えているものだけが美しい。蝉の絶唱、これ程美しい悲劇はない。これ程純粋な炎は無い。私は太陽の悲劇そのものを聞いている。
 とはいえ平穏と安寧は必要である。石になる時期は必要である。蝉が長い年月暗い土中に閉じ籠っていたように。しかしそれは目的ではない。反対である。あの暗く長い土中生活はこの一瞬の夏をより爆発的に輝かせる為の引き絞られたばねのようなものなのだ。生活の為に祭りがあるのではない。祭りの為に生活があるのだ。夜の為に太陽があるのではない。太陽が輝く為に夜があるのだ。我々は太陽の子だ。我々は輝くために生まれてきた。我々は燃える為に生まれてきた。その為に長い夜がある。その為に黒い死がある。
 私は本を読んで知識を深める。しかしそれはそんな知識をぶち壊す為である。言葉を重ねる。それは言葉を破壊し尽くす為である。言葉は美しくない。言葉は生命ではない。死んでいく言葉だけが美しい。死んでいく言葉だけが生きている。私の心を動かす言葉はもはや言葉ではない。それはやはり生命だ。炎だ。太陽だ。芸術行為とは太陽をその限られた小さな枠にぎゅうぎゅうと圧縮する事である。その枠から爆発して溢れ出す高められた太陽の熱と輝きが観る者の心を抗い難く焼き滅ぼすのだ。宿命が彼に乗り移るのだ。死を越えて時を越えて生命が生命に伝播していくのだ。