黒い蠢き

 蝉が落ちていた。さかさまにひっくり返り空を仰いでいる。玄関を出てすぐの白い石畳の上だ。良く見ると手足が動いている。ゆっくりとゆっくりと。片手で掴み取って私はその蝉を白い木の幹へと張り付けた。その蝉が木の上を目指してゆっくりと動き始める。私はその背中を見届けながら庭の門へと歩いていった。
 夕方、私は帰って来た。するとまた蝉が落ちていた。おそらくは朝の蝉だ。張り付けた木の根元に落ちている。今度はひっくり返っていない。しっかりと脚や腹を地面の上にくっつけている。その蝉を掴もうと朝のときと同じに私は手を伸ばした。しかしその手は途中で止まった。蝉の身体一面にびっしりと黒く小さなものが蠢いているのを目にしたからである。それは小さな蟻の大群だった。蝉は既に死んでいた。夥しい数の黒い死が彼の身体に張り付いていた。しかし同時にそれは夥しい数の生だった。私は吐き気を催した。だが同時に魅了された。一つの死の裏側に顔を見せた過剰な生命力、その力に私は圧倒されたのだ。
 三島由紀夫、彼の絵画調紀行文を一冊にまとめあげた著作旅の絵本、その本の中に於いて彼が熱帯と死の思想について語っている場面がある。ハゲタカやトカゲ、どぎつく派手な熱帯の動植物たちを前にして病に臥せった彼はその厭らしいまでもの生命力に嘔吐を催す。更にこのまま自分が病に死ぬとしてもそれは死に打ち倒されるという事ではなく、何か過度な厭らしい生命力に打ち倒されるのだと続けて語る。
 三島の言う過度な厭らしい生命力、それは正に今私が目の前にしている黒い蠢きそのものだった。
 蟻に限らない。無数に蠢く黒い虫の光景に大抵の人間は嫌悪を抱く事だろう。虫たちに限らない。蛇や鼠、どんな生き物でも数百数千と或る限度を超えた数を以て目の前に現れたとき、人間はその醜悪さに対して嫌悪、更には恐怖や戦慄さえもその胸に覚える事だろう。そのとき、目の前の生物それ単体の個別性はもはや溶け去り、彼が目の当たりにしているのは或る巨大な一つの生命のうねりであり、彼の生命を一瞬にして飲み込んでしまう過剰な生命の赤い炎そのものなのである。
 あらゆる醜悪さのイメージ、そこには必ず黒い死の影が付き纏っている。その黒い影を闇であるとか或いは無であるとか勘違いする人間もいる。それ程にもそれは真っ黒な色をしているのだ。しかしそれは闇でも無でもない。それは或る巨大な生命のうねり、過剰な生命の赤い炎の塊の色濃い影なのだ。言うまでもない。それは太陽だ。死の暗さとは空の頂きで燃え盛っている生命の火の源、あの太陽の厭らしく過剰な赤い炎、その過剰な影なのだ。三島はその本の続きで熱帯の死と太陽崇拝との切り離す事の出来ない緊密な関係を語っていたが、太陽は熱帯の死の上にだけではなく、ありとあらゆる死の上に燦燦と輝いている。誰もそれを免れる事は出来ないのだ。一人として例外は無く、みんな太陽に殺される。死とは無ではなく、太陽から飛び出した生命の火の粉が再びその太陽のもとへと還っていく、その過程に過ぎないのではないか。
 今、一つの生命が太陽のもとへ還ろうとしている。それを祝福するかのように轟々と生命の合唱が空を覆い尽くす。蝉が落ちていた。彼の身体を包み込む赤い炎、その太陽の輝きを私は確かに見たのだ。