単純な認識とその認識に対する私の認識、それをまた更に認識する私の外の他者の認識。この私の外の他者の認識は単純な認識と認識に対する認識が違うということに気が付いたときから発生する。いわゆる無知の知である。無知を自覚するのは私ではなく私の外の他者なのだ。また無知を自覚するということは自分が楽園を追放された身であるということを自覚するということである。そのことに気が付かない人は自分が未だに楽園で暮らしていると思い込んでいる。だから楽園に居た頃のようにいやむしろその頃よりも発達してものが認識出来ているように思い込んでいる。彼らは楽園に居た頃と同じ方法、単純な認識でものを見ようとし見た気になっている(悪の萌芽)。しかしそんな単純な認識はもう彼に失われているのだ。彼が認識しているのはものそのものではなくものを認識したという認識、意味概念言葉であり、彼が認識しているのはいつも過去である。今この瞬間を見つめる子供の瞳、彼の中の他者の瞳を彼はもう持っていないのだ。そのことを認識する認識が無知の知の自覚であり、楽園追放の自覚であり、同時に私の外の他者の誕生である。私と私の中の他者との和解による完全な認識、王冠を被っての楽園への帰還、すべてはそこから始まるのだ。