蜂が花を見る。彼は花を認識している。しかし彼は自分が花を認識したことには気が付いていない。認識を認識する主体が蜂にはない。人間が花を見る。彼は花を認識している。忽ち彼は自分が花を認識していることに気が付く。つまり彼は認識を認識している。するともうその花は彼の目から消え去る。花を認識していない。彼が認識しているのは目の前の花を認識していることの認識、彼が認識しているのはその花という意味概念言葉である。しかし彼は自分が目の前の花を見ている認識していると思い込んでいる。
 認識に対する認識の主体者である彼が目の前の花を純粋に認識するのは認識に対する認識を喪失したときである。見ていることを忘れて見ているときだ。そのときその目の前の花(花という言葉概念意味すらないそのもの)は純粋なありのままの姿で彼の瞳に映る。認識に対する認識、私の意識が目の前の花から目の前の現実から彼を隔て遠ざける。純粋に見るということ、純粋に現実を認識するということ、つまり純粋に今を生きるということは認識の認識者である私という主体にはとても難しいことなのだ。訓練が要る。見ることの訓練、認識することの訓練、それは生きることの訓練である。