感受性が高いというのはその名の通りで、それは物事を感知感受する能力が高いということで、よく物が見えよく耳が聞こえる、ありのままの純粋な認識能力が高いということである。子供は皆純粋認識者だから感受性が高い。大人はその純粋認識を認識する「私」という靄、言葉概念意味のフィルターがかかりそのことが感受性を鈍くしている。しかし大人になっても感受性が高い人間は存在する。彼は子供のように物事を純粋に認識する。彼には認識を認識する「私」という認識の主体がほとんどない。透き通った存在。彼はありのままの現実を見、ありのままの現実を聴き、ありのままの現実を認識し生きている。彼には時間がなく、彼は永遠の今を生きている。そんな人間のことを感受性の高い人間、或いは詩人と言う。それは決して認識に対する認識の強い人間、言葉や概念、自分の感情に敏感で多感な自意識過剰の「私」的人間のことではないのだ。そして私は詩人ではない。もう朝焼けを見ることは出来ない。黄金時代への退行は不可。また自意識の「私」、似非詩人の私も完全に滅ぼさねばならない。非「私」、私の外の他者として思考に思考を重ね、「私」諸共その思考の燃え尽きる先、彼方にいつの日か見た永遠、太陽の沈むの海をこの瞳に再び見るのだ。それがそれだけが唯一私に残されている私とこの世界との和解、その方法である。