形ないものを形あるものによって探る。純粋認識の世界を認識の認識者「私」によって認識しようと試みる。その結果として誕生する形はその試みが成功するならばそれは単純な形ではなく、形なく且つ形あるもの、純粋認識と「私」の認識が一つとなった認識、太陽と海が溶け合った永遠になる。

 ところでこの形ないもの、それはその内容にではなくむしろ表面にあるのだ。百合という花が何であるか語ることは容易い。しかし百合の花の表面を語ることは困難だ。作品の内容、意味、主題、成立背景などについて語ることは容易い。しかしその作品に描写されたものそのものの色や音や形について語ることは困難だ。彼がどんな人物か正確に語るよりも彼がどんな外見をしているか正確に語ることのほうが難しい。内容は意味に還元できる。表面は限りなく意味に還元できない。子供から大人になり、純粋認識者から認識の認識者「私」となり失われた世界、形ないもの、語り得ないものは結局形あるものの表面にこそあるのだ。「私」は表面が見えていない。全然見えていない。何故なら「私」は認識するそのほとんど全てを意味概念、内容へと変換してしまうから。だから形ないものを形あるものによって探るということは純粋なありのままの表面を形あるもの言葉や線によって探り当て「私」にも見えるようにしようという試みなのだと言える。