見られることは見ること

 

 いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。
 日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければならないのだ。

      ーー硲 伊之助訳 ゴッホの手紙 中 よりーー

 

 完全な認識、それは認識の主体者の死とその死を認識する者によって完成する。仲間の死を見る者によってその究極の認識は完成する。認識、生きようとする意志の彼方には死があるのだ。ジョルジュ・バタイユの「エロティシズム」によれば生物は死を発明しそれに賭けたのだという。より生きより認識するための死とその死する認識者を認識する認識者の発明。それは炎の燃え尽きるところ。異常な高温で死と重なり合う生の認識の極点。赤い薔薇の裂け目。それは自殺ではない。自殺はむしろ認識の拒否であり生きることの拒否である。薔薇の花は生きようとしている。咲き誇ろうとしている。限界まで認識しようとしている。しかしそうして激しく燃えれば燃えるほど彼女は死へと消滅へと究極の生、認識へと近付いてしまうのだ。しかしそれを彼女は薔薇の花は知らない。彼女は純粋認識者である。罪なき生け贄。だからこそ宿命的に生の極点と死が重なる。悲劇。それ以外有り得ないということ。しかし認識の認識者である人間の大人の「私」はその死を避け他に生きる方法を知っている。つまり選択の自由を持つその私が自ら死を選んでもそれは生きることの拒否、認識からの逃避であり、生の極点には
程遠く、つまり生の極点と死が重なる瞬間、悲劇にはならない。十字架、究極の認識は常に結果、起こってしまったことである。望むことは出来ない。だから認識の認識者である「私」は可能な限り、死ではなく生の場に於いて生を認識をその先に純粋な認識純粋な生を追求しなければならない。

 

 究極の認識、つまり完全な生はその認識者の死(究極の認識、生)を認識する者によって完成する。見ることは見られることによって成し遂げられるのだ。美しい紋様の羽根を持つ雉鳩が居る。彼は彼の全体像を彼自身で見ることが出来ない。しかし彼は美しい。或いは毛繕いを怠らない猫たち。動物、昆虫、植物、あらゆる生物たち、彼らはわかっているのだ。見られることは見ることであり、生きるということなのだと。純粋認識者である彼らに認識の認識者である「私」はなく、つまり彼らは全体の一部分である。雉鳩が雉鳩を見るとき雉鳩は雉鳩に見られているのだ。そこから生物の美への意志が始まる。美は認識の極点、生の極点である。そして恥の文化であり花の文化、見られる自分というものの姿形態度に極度の価値基準を置く日本人、かつての日本人にはその生物本来の美への意志引いてはより強く認識し激しく生きようとする太陽その光炎の宿命が色濃く息づいていたのである。
 

 純粋認識者にとって見られることは見ることである。聞かれることは聞くことである。認識されることは認識することである。認識の認識者「私」の意識が無ければ或る個体の認識は同時にその種全体の認識である。そしてその生物の姿形在る姿は彼らの世界認識の結果であり、それこそ一個の詩なのだ。絶え間なく世界を認識し続け、現実を生き続け、その結果として生まれ続ける詩。今日もこの瞬間も更新されていくその美。
 しかし人間はどうだろうか?認識の認識「私」の意識を持つ人間は。「私」の意識の芽生えは同時にその種全体の意識の終焉もしくは昏睡である。その純粋認識者永遠の処女は無意識の暗海と化する。するともう見られることが見るという状況は消滅する。「他者」が出現し「私」を見るのはその「他者」である。「私」にとっては不可知な存在であるその「他者」からどう見られているか、それは全く未知で全然わからない。「私」が見るという行為もそれはかつてのように見ることが見られるという状況にはなく、「私」が見るときはただ「私」個人が見るのであり、それは全く孤立した認識、それも純粋認識ではなく、認識に対する認識、「私」は独り自分が見ることを見ているのである。あの赤い罪の果実を食べてしまったがために。黄金の楽園から追放された彼の暗く深い靄に包まれた不安で孤独の航海がそうして始まるのだ。