SNSの現実感

 SNSというものも現代人がその意識の多くを割いて滞在させている場のひとつである。電車のなかでスマホの画面に釘付けの彼らたち。その半分以上はSNSをしているのではないだろうか?電車のなかで彼らの様子を眺めているとリルケの「マルテの手記」の図書館の場面をいつも思い出す。図書館、そこでは並み居る人たちが皆本を読み、つまり意識が本のなかの世界に滞在していて、現実の図書館はというと意識不在の空虚な肉体が横並んでいるだけ。うろ覚えだがそんなシーンだったと思う。図書館は電車のなかへと変わり、本はスマホへと変わった。そこでは図書館と同じに意識不在の空虚な肉体が横並び、私はその誰もいない、時間すらも流れているのか判然としない静寂とした電車のなかが心地良く、忘れられた墓地を歩いているように心地良く、いつもたいていはそのまま眠り込んで、私も意識をここではない世界、夢のなかへと飛ばしてしまう。そうしてぽつぽつと意識の滞在者は減っていき、しまいに完全に空っぽとなった「誰も乗っていない」電車は左右に開いた大きな窓にめまぐるしく街の風景を切り裂きながら猛然と冷静に次の駅へと走り抜けていく。

 SNSという空間もあらゆるものの例外ではなくそこへ滞在した時間だけ、滞在した者にとってのその現実感が増す。それはあのA君の罠のように彼の意識を左右し、しまいに彼の意識を支配する。SNSが彼にとっての現実そのものとなる。それは当然ながらSNSを運営する企業の目指すところだ。その空間へと滞在者が多く、またその時間が長く、つまりその空間の現実感が増し、本物の現実へと近づけば近づくほどその空間を運営する者に大きな利益をもたらす。でもこれはSNSの企業とその商法に限った仕組みではない。あらゆる商売は究極的に同じものを売っているのである。それはもちろん現実感だ。食欲、性欲、物欲、睡眠欲、知識欲、犯罪に対する欲望も含めて人間の持つあらゆる欲望は本当の現実を感じたいというただひとつの欲望の枝分かれである。人間はその意識自体によって本当の現実から遠ざけられている。そしてそのことを意識的に無意識的に自覚している。つまり自分が本当の現実を生きていないということを誰もが意識の深いところで知っている。それは彼に根源的な虚しさを与える。しかしだからこそ彼は彼に失われているその現実感を取り戻そうと欲望を感じ、あらゆる活動に手を染める。それが生きるということだ。生きてないからこそ彼は生きようとするのである。その現実感への欲望は彼を包む意識の強さによって、またその感受性の度合いによって増えたり減ったりし、意識の強い人間は当然、その欲望も激しくなり、また本当の現実に対する感受性の鈍い人間もその欲望が激しくなる。社会の経済はその欲望を刺激し、持続させ、消費させることで回転していく。複雑なようで基本的構造は単純。彼に現実感を与えれば良いのである。しかしただ現実感を与えるだけでは長続きしない。彼は飽きてしまう。何故、飽きるのか?それは彼が本当に欲望している現実と与えられているもの、空間が違うということへの彼の認識、それが増大するからである。だからただ現実感を与える、繰り返し繰り返し彼の意識を滞在させる時間を増やすというだけではなくて、そこに彼にとっては不可知の要素が必要となってくる。言い換えるならそれは未知の、謎の要素であり、またギャンブル的な要素である。SNSに必ずと言って良いほど実装されているいいねボタンはその典型である。