奴隷と主人

 

完全な服従の状態に達した被造物は、それぞれが、この世における神の現存と、知と、わざとの、独自な、唯一の、かけがえのないありようを示す。

             ーーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵」より

 

 奴隷と主人。一日24時間365日完全に肉体的自由を奪われている奴隷とその主人。生殺与奪さえもが主人の思いのまま。そんな悲惨な境遇の奴隷にとって彼を取り囲む現実のなかに彼の意思が介入出来る要素はまるでなく、つまり彼にとってその目に映りその耳に入る、感知し得る世界はほぼすべて彼にとって絶対の他者であり、彼は常にその絶対の他者と接触させられている。無力な幼児の瞳に母親や父親が絶大な力を持つ巨大な神そのものであるように奴隷である彼は主人という絶対の支配者を通してどんな想像力も入り込む余地がない絶対の現実、神そのものへと接近しているのだ。そしてその神そのもの、つまり柔らかなヴェール、私というフィルターなしに本当の現実と接触することは当然ながら彼の自我を耐え難い苦しみや悲しみに引き裂く。そしてその苦痛は彼が私を喪失し奴隷という境遇を完全に受け入れるまで続く。しかしその耐え難い苦痛が続く限りに於いて彼は数多の芸術家や宗教家が一生をかけてたどり着こうとする真理、ありのままの現実、絶対の他者、神そのものへとただ彼がどん底の奴隷であるというだけで接触するのだ。

 一方、主人にとって奴隷は彼の意思で如何様にも形を変化させ動かしその生と死まで自由に出来る、つまり彼の意思が完全に浸透可能な存在であり、奴隷の彼は主人の彼の一部だと言える。だから奴隷の彼は主人の彼にとって他者ではなく、彼そのものであるそのような奴隷と接しているかぎり、彼は他者と接触しない。それは何処まで行っても彼自身しかか居ない世界である。彼にとっては何でも望むがままの完全に自由かつ裏切りのない全き平和な世界。そこで彼は他者を知る前の幼児の状態へ退行する。裏を返して言うなら、他者を支配して隷属させたいという欲望の背景には恐ろしくまた不愉快な他者というものから逃避したいという欲望があり、あの幼児期、無敵の暴君時代へと回帰したいという願望が隠れているのだ。しかし絶対君主である彼はその奴隷と接している限り当然ながら他者、即ちありのままの現実、絶対の他者、神そのものから無限に遠ざかる。それは彼を空虚にする。権力を持てば持つほどそうなる。これをいわゆる独裁者の孤独と言うのだろう。

 ところで完全な奴隷の状態へ堕ちてしまった人間。しかしそれでもなお彼が自由のままでいたとしたら?手や足を縛られ猿ぐつわを口に嵌められしかしそれでもなお他者から現実から神から少しも侵されることのない炎がその胸に輝いていたとしたら?それこそ本当の私なのではないか?それこそ現実から超越して存在している魂、この現実世界の運命を支配する神とは別な超自然の神なのではないか?