そも「私」とは一体何ぞ。認識の認識者である。見ていることを見ている主体である。生きている主体そのものではなく生きているその主体を認識する主体である。故に「私」が認識するのは常に過去である。「私」が見る、ことは出来ない。「私」は常に見た、である。「私」が認識しているのは過去である。つまり「私」はいつも既に終わったことを見ている。
 「私」は「見る」を「見た」へ変える。「私」が存在しなければ「見る」はずっと「見る」のままである。「私」が過去を作っている。「私」を失うことを恐れるということは私(純粋な肉体の認識)の過去を失うことを恐れるということだ。「私」が私の過去を思い出せなくなることを人は恐れている。私が花を見る。しかし同時に私が花を見たことを「私」が認識、つまり思い出せなければ「私」は花を見たことを認識出来ない。延々と私が花を見続けているだけである。「私」は私が花を見たことということに気が付くことが出来ない。認識出来ない。それが全ての認識に於いて起こったとしたら?「私」は何も認識出来ない。つまり「私」は私の認識を認識出来ず私を認識出来ず結局「私」は存在することが出来ない。思い出すこと、記憶の再生と「私」は切り離すことが出来ないのだ。翻して言うなら「私」とは私の過去を想起する存在、私の影である。