物には物の意志があるのかもしれない。それは物が物で在り続けようという意志である。人形は絶対に意志や感情を持たない。しかしそれこそ揺るぐことのないその人形の意志だと言えるのではないか。生物が生物であり続けようと意志するように物は物であり続けようと意志する。生物の中にもその物の意志は存在する。一つの生物の中には認識する部分と決して何も認識しない部分がある。生物という言葉自体がその矛盾した存在の様態をよく言い表している。それは生きていながら生きていない物、認識者でありながら反映物なのだ。だから私の中にも当然物の部分があり、私は認識しようと意志するのと同時に何も認識しないことを意志している。何も認識しないことを意志する物としての私は即ち完全に受動的な形でこの現実を反映することを意志している。言い換えるならそれは私の死への意志である。
 私の中にある私の死への意志、それは私の中にある物の意志でありまた私の中に居る人形の意志である。あらゆる私の意図作為を忌み嫌いこの現実をありのままに反映、言い換えるなら神の声に対して純粋に従おうとする意志は実は私の中に居るその人形、物の意志であったのだ。あらゆる殉教者や英雄或いは予言者たちをその声は死、永遠のオブジェへ、物の世界へと誘った。
 かたや芸術家という人種がいる。彼らの中にも当然その人形の声、私の死への意志はある。しかし彼は死ぬことはない。いや死ぬのだ。彼は生きながら彼を殺し、その彼を彼の創る作品、物へと同化、現実に顕現した彼の人形、神へと捧げる。だから彼は現実には生き続けなければならない。生きて創らなければ彼をその作品へと捧げることが出来ない。つまり生きるということが芸術家の第一条件であり同時にその存在は彼の自殺や破滅の否定である。彼はその作品制作によってこそ彼を殺害し滅却しなければならない。ゲーテはウェルテル(彼自身)を殺して「若きウェルテルの悩み」という作品を創った。その態度姿勢はあらゆる芸術家のいや職業人の模範と言えるだろう。