花の永遠

 

いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教と言えるものではないだろうか。

             ーー硲 伊之助訳「ゴッホの手紙 中」より

 

 生命とは皆水であり太陽の光と熱を反射する鏡である。暗黒宇宙の片隅、幾億光年の彼方からこの地球、この大地へと送られた光輝と火炎の花束をその完全に孤独なまなざしの主へと送り返すのである。しかし「私」の意識はそれを邪魔立てる。明晰で堅固な「私」という意識を持続させていくためにはその激しい光と炎、つまりは生そのものの息吹きを鎮めなければならない。「私」の意識とは死に対する意識である。人間だけがその死を意識する。つまり「私」を意識する。「私」の死を意識する。それは何処にあるか?未来にである。人間は未来を意識する。他の生き物も危険や利益を察知する。つまり彼らも未来に対する意識はある。しかし彼ら他の生物たちはその未来をすぐに忘れる。単純な、要するに純粋な生物ほど未来に対する意識は希薄だ。だから彼らはその未来に縛られることなく今を生きている。光り輝き燃えたぎっている。花たちは生きている。たまゆらに生きている。彼らはあの太陽に花束を返しているのである。一方、人間はその脳髄に深く刻み込まれた「私」の未来の死の意識によって自らの花を封印しただその「私」を出来る限り長く、もっと言えば永遠に持続させようとあがく。太陽へ花を返すことがない。それが人間という生き物の抱える原罪である。彼らは永遠を願い、石の塔を建て、肉体の復活を願い、結局は儚く醜悪に滅び去る。ただたまゆらの花だけが永遠へと至る唯一の門である。「私」の意識を滅ぼす一瞬のその火炎、そのときだけ人間は生き、永遠に、太陽に、ただひとつの法へと至り、彼の情熱に同化する。