鏡としての人形

 人形願望(或いはオブジェへの意志)。それは誰かの人形になりたいという「私」の意味付けのための隷属の願望とは別に、私の中の物の部分の純粋な反映への意志、私の死への意志願望である。人形は物であるからその本質的に誰のものでもあり誰のものでもない。それはこの認識界の外、語り得ぬ物そのものの領域、聖なる世界に属する。神聖娼婦。いにしえのかつて巫女は同時に娼婦だった。それは生きながら或いは実際に殺害される人間の生け贄であり人形である。人間、存在でありながら同時に物であることによって純粋に現実世界を反映する、神の声を告げる鏡の存在。人形はむしろその聖なる反映体生け贄の代替品なのだと言えるだろう。
 シモーヌ・ヴェイユキリスト教は奴隷の宗教だという霊感に打たれた。それを人形の宗教と言うことも出来るだろう。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」このイエスの言葉からも純粋な反映体への意志、人形への意志が伺われる。そして実際にそのイエスも何ら抵抗することなく生け贄のように人形のように殺害されて十字架という神と人間を一つに結ぶ「物」となったのである。
 ところで実際に普通人々が思い浮かべるあの人形というものは先に少し述べたがこのような実際に生け贄を捧げる血の儀式や性の祭典に人間たちが自分で耐えることが出来なくなった(あるいはその意味を成さなくなった)ときからその代替品の一つとして生まれ発展深化してきたのではないだろうか。人間自体をオブジェにすることから人間がオブジェを創ることへと熱が移っていった時期。そのときこそ本当の意味での人形造りつまりは芸術の観念、伝統が始まった。それが中世なのではないだろうか。少女が人形を使っておままごとを始めるとき。少年が日が暮れるまで砂の城づくりに精を出し始める頃。

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 しかしそもそも人間は最初人形だったのだ。それは認識力に乏しくほとんど意志らしい意志も感情らしい感情も持たない、無に近く、ただ周囲の人間や環境の状態を純粋に反映するだけの存在。人間の赤子以上に無力でつまり人形に近しい存在は居るだろうか。だがその人形に段々と 感情や意志、心が芽生え始める。するとその彼女に今まで見えていなかった彼女の中の人形の姿が見え始める。人間は「私」、自己を認識する前にまず「私の中の人形」、純粋な私の中の反映体を認識するのである。だからきっと彼女は人形を欲しがるのだ。未だ無力な彼女よりも更に無力な絶対の反映体人形を現実に手にすることで相対的に彼女の心があやふやなものからしっかりしたものと実感出来るもようになる。そうして彼女の心と人形の分離は加速していき、やがてその人形が彼女にとって完全な他者となったとき、つまり彼女が「私」になったとき、人形は役目を終えて押し入れの奥に或いは焼却炉の煙へと彼女の記憶の彼方へ消えていく。ああ、でもそれは大き過ぎる錯覚誤解なのだ。人形は純粋な反映体物としての彼女は彼女がどんなに歳を重ねても消え去ることなく彼女の中の暗い井戸の底でひっそりと息を潜め続けている。彼女の深い眠りの中で密かに。そしてやがて彼女自体が消滅、つまり彼女が死ぬとき、その深い井戸の底からから壁を這い上がってきて彼女が忘れ去った人形、彼女は円い出口の穴からその蒼白い沈黙の顔を公共に太陽の光へ向かって晒すのだ。