頭部や両腕の欠落した胴体のみの希臘彫刻。悠久の時の流れによって無惨にも破壊されてしまったそんな彫刻作品の方がほとんど完全に当時の形のまま現存している彫刻作品よりも真に迫る力をもって目に焼き付いてくるのは私だけだろうか。
 破壊された彫刻作品というものはもはやその制作者の意図や願望から抜け出してあらゆる意味には還元出来ないだからこそ神秘的な物そのものの姿を見る者に対して垣間見せる。それは当然あらかじめの沈黙ではない。強力な一人間一民族の認識、生の焼き付きを経た後の沈黙であり、真冬の沈黙ではなく、夏の終わりに感じるあの沈黙、無というよりは空と呼んだ方が相応しいもの。その技術や知性や感受性が卓越し、制作者の認識力の総力が完全であるほどしかしそれでさえも少しも手の届くことがない物そのものの世界の高さ、もはや平伏すしかない偉大なその高さ、聖なる物と「私」との隔たり、到達不可能な神聖、空の沈黙を見る者に対して深く胸を突き刺すように物語る。
 認識の認識者人間の「私」には、いや、認識者生物にも決して認識することの出来ない物そのものの神秘な世界。とはいえ人はその不可能な世界へと彼の引き裂かれた「私」認識の認識、言葉、概念のその裂け目を通して接近することは出来る(もちろんたどり着くことは出来ない)。ジョルジュ・バタイユの言うところの「或る裂け目」である。希臘の欠損されたつまり引き裂かれた彫刻はその裂け目、物そのものの世界への接近を私に感じさせてくれる。しかし中にはその裂け目、超現実の物の世界への接近を意図的に意識的に顕現させようと目論む人々が居て、そういう芸術家作家たちのことをシュールレアリストと呼ぶ。