「私」は私(肉体の意識)を追う影である。文明開化とともにこの国はその「私」の更に進行した形態の西洋版「私」を輸入した。しかしそこにその「私」の創造主である絶対的な「神」の概念は含まれてはおらず、つまりそれは製造元不明不在の「私」根拠のない形のない見えない「私」の輸入であった。結果的として薄弱な曖昧な存在「私」の不安と空虚に震える夥しい影の群れが黒々とこの国を覆い、それは病んだ森のように現代も拡大する一方である。

 影が影でないことの証明、つまり実在しない者が実在するように見せまた自らもそう感じるには莫大な実在する者の消費、大量の自然を生命を破壊し影が摂取出来る意味へと変え消費しなくてはならない。「私」と大量消費社会は不可分なのだ。

 或いは影は「神」を求める、「真理」を求める、「愛」を求める。しかしそれらはどれも同じに結局は自分が影ではない、根拠ある意味のある実在だと保証してくれる他者を求めているのである。そしてその恋する相手は実在でなくてはならない。非実在、自分と同じ影の相手にいくら手厚く「私」を保証されても意味はないのだ。恋をする彼や彼女との距離が彼や彼女を実在だと影に勘違いさせ、つまりは彼や彼女が輝いて見える。しかし彼や彼女と距離が近付き、その正体への理解が深まるほど、彼や彼女が自分と同じ影だという隠すことの出来ない事実が露わとなっていく。でもそれはお互い様だ。その点「神」や「真理」は決してその正体を影に暴露することなく、つまりその不可能な距離によって影の恋、希望を半ば永久的に引き延ばすことが出来る。しかし「神」や「真理」はそれが本当に実在であるなら決して影の存在を保証したりしない。影の祈りにも影の問いにも答えることはない。むしろその神聖な沈黙の火炎によって影を「私」を虚妄を焼き滅ぼす。