鏡に映るオブジェ、物としての肉体をベルメールの人形たちは思い出させてくれる。それは希臘の壊れた彫刻も同じである。もはや何の意味も持たない語ることが不可能な物そのもの。しかしベルメールの人形からは希臘の壊れた彫刻にはない仄か暗いエロティックの香りがぷんぷんと漂ってくる。それはやはり意図的な作り手の意志がつまりは認識への意志エロス生への意志がその塊の最終的帰結に参加刻み込まれているからだろう。物そのものへと異常に何処までも接近しながらしかしそれは厳然と1人の人間の作品なのだ。希臘の壊れた彫刻は違う。それを破壊(創造)したのは人間の意志ではなく(たとえ誰かが壊したのだとしても)長い歴史の時間そのもの、つまり人間の意志を超えた物そのものの意志である。偶然であり言い換えるなら神の意志である。その意志はあらゆるものを彼の物へと変えていく。ベルメールの人形はそんな神の物への意志を先取り或いは略奪しあらかじめ物である肉体の人形を造った。それは神の意志に対する人間という一生物の抵抗、認識の力、生の力の抵抗でありだから彼の人形はエロティックなのだ。バタイユはエロティシズムを「死に至るまての生の称揚」と定義したがベルメールの人形も結局はその生の称揚であり死の称揚ではない。何故なら彼はそれを創ったのだから。もし彼がそれを創らなければきっとベルメール自身があのような死体、彼の人形とも言えぬ人形、物そのものと化してしまったことだろう。

 シュルレアリスム(超現実主義)とは要するに「私」の言葉や概念によっては認識出来ない非「私」の認識、つまりは無意識、私の中の他者、肉体の「彼女」による物そのもの世界の認識へと「私」がたどり着こう垣間見ようとする試みである。ベルメールはその「私」が規定し信奉している人間や人体という概念を毀損破壊することによってその裂け目から物そのもの世界を覗こうと認識しようとしたのだ。その背景には近代に起こった言葉や人間という概念に対する懐疑及び不安、人を世界を創造したキリスト教的神に対する不信の態度がある。人々はもはや神を信じず、だからその神が創造した「私」を信じず言葉や人間という概念が信じられなくなった。それは言葉や概念という道具では物そのものの世界にたどり着くことが出来ないのだということに彼ら西洋人たちが気が付き始めたということだ。そこから彼らの言葉と言葉の間の世界への探求、ベルメールを始めとしたシュルレアリストたちの冒険が始まったのである(その一方にはフロイト一派による精神分析学上の無意識の発見とその探究がある。また一方には神の死によって失われた人の形を人工的に回復しようという試み、ナチズムを始めとした民族主義があり、また戦争や自然の大量破壊という形の失われた人間たちによる物への意志、タナトスの具現化、現実行使の運動がある)。

 しかしシモーヌ・ヴェイユはそんなシュールレアリストたちの態度を否定非難弾劾する。彼女の純粋志向は「私」のあらゆる作為的なもの意図的なもの、「狙い」を拒否する。とはいえヴェイユも言葉や概念、思考する悟性の力で物そのものの世界へ、真理へ、神へと到達出来るとは信じていない。信じていないどころかその力を全く否定してしかしそれでも西洋伝統の言葉や概念、思考する悟性の力で不可能な神へと近付こうとすることをやめない。だから彼女の中の物への意志、タナトス、純粋な反映体、人形(神の奴隷)への意志は外へとは向かわず彼女の内側「私」に対する否定と破壊、それも徹底的な否定と破壊をもたらした。それはバタイユが「大胆なペシミズム」と呼んだ自殺という「私」の意図作為すら否定拒否する完全な「私」の否定拒否破壊である。作品を創ることによって(あくまでも)彼が生き続けようとするバタイユシュールレアリストたち、いやあらゆる「私」の持続と保存を願い意志する人々にとって彼女はまさに呪いの死の黒鳥のように映っただろう。私も彼女ヴェイユの本を開くたびにうんざりする。私は生きたいのにその「私」の生を彼女が粉々に打ち砕き否定するからである。しかし気が付くとまた彼女の本を開き彼女の言葉を読んでいるのだ。それはきっと彼女の存在からあの希臘の壊れた彫刻と同じもの、人為の汚れの取り払われた純粋純正な物の意志、神の声が聞こえてくるからだろう。そして結局のところ私という人間はその聖なる沈黙を語る真(まこと)の人形をしか愛することが出来ないのだ。