根の喪失と他人の出現

 私にとっての絶対的な他者、それは神である。私だけではない。人類、この地球宇宙に存在するありとあらゆる生物及び無機物にとっての他者、それが神である。しかし近代以降、西洋ではその神が死に、つまり絶対的な他者を喪失した。するとどうなっただろうか?普通に考えれば絶対的な他者が居なくなったのだから他者というものはすべて相対的なものへなったと考えられる。しかし絶対的な他者の喪失はその絶対的な他者が定めた人間という概念、更に共有する文化、つまり私でもありあなたでもある私、私と他者が共有する私、根の喪失をももたらした。私は孤立し、いわゆる個人の意識が誕生した。同時にその個人に対する他人という他者が、今までは私でもありあなたでもある私=根によって繋がり存在していなかった、不可知の不気味な化け物、他人という他者が誕生した。またそれと並行して絶対的な他者の喪失は私という存在根拠の喪失をもたらした。絶対者が居ないのだからすべては相対的で、その摂理法則は私という個人も例外ではないのである。近代に誕生した輝かしき個人、しかしそれは根無し草の私の産声であり、更にその底なし沼の不安を抱えた個人を囲う他人という恐ろしい怪物の産声であった。しかもその怪物は相対的存在でありながらそれと接する私も相対的であることにより実際はほとんど絶対的な他者の怪物と化したのだ。不可知な、訳の分からない、コミュニケーション不可能なその他人という怪物に対する不安、その絶大な恐怖、負の感情が人々に失われた根の代用品、各種イデオロギー民族主義全体主義、神の如き独裁者を待望させたことは不思議ではない。こうして根の喪失とその根の代用品の出現が大きな戦争や大虐殺を引き起こす大きな要因となり、そのために二十世紀は膨大な犠牲が払われた。しかしその他人という怪物に対する不安は現代になっても何も状況変化なく、むしろその恐怖は肥大化し先鋭化している。ライオンよりも核爆弾よりも大戦争よりも何よりも現代人は今目の前に座っている他人が恐ろしくて溜まらないのだ。しかしまだたとえばこの国は経済的に余裕がある。金の力は他人という存在をオブラートに包んでくれる。(金を使うことで金という暴力で一時的に他人を私にしている)その金が底を尽き、つまり経済が破綻へと近付いたそのとき一気に個人は否が応でも避けてきた他人、それもひと際巨大となった他人と直面せざる負えなくなる。そうして人々の他人への不安と恐怖、フラストレーションは極限へと達し、強制的に他人を消し去り、疑似的な私でもありあなたでもある私、つまり根の代用品を渇望するようになる。絶対主義が全体主義民族主義イデオロギーが復活する。もうその兆候が出ている国はあるだろう。またあの暗黒時代が来るのだ。しかしもう既に暗黒時代になって久しいのだ。くに、文化という根を切り落とされ、また自ら捨て去った、そのときから根無し草の孤独と不安、他人という怪物に対する恐怖、それに伴う根の代用品を望む潜在意識、暗黒時代はもう始まっていたのだ。