7月9日の日記「異端のマゾヒズム」

 昨日よりはましになったとはいえ今日も肌寒い一日だった。このまま永久に夏は来ないのじゃないか、そのまま地球は氷河期に入っていくのではないか、そんな下らない妄想をするのは久しくまともな太陽を拝謁していないせいか。とはいえ最近貰った季節外れの秋服を着る機会に恵まれてそれはそれで嬉しい。
 それでは昨日の続きを書くとしよう。
 マゾヒズムという概念には正統と異端があってマゾッホの系譜に連なる正統の方については昨日書いた。今日書くのは異端のマゾヒズムについてだが、異端のマゾヒズムというものは観念を脱ぎ捨てて裸になりたいという正統のマゾヒズムとはまるで正反対の、自分で持て余している裸を誰かの観念の衣装で包み込んで貰いたいという願望に基づいている。彼女は物腰柔らかいしかし威厳もある洗練された御主人様に首輪を付けて貰いたいのだ。
 裸とは自然である。人間がその内側に持っている自然というものは感情、例えば、憎しみ、怒り、悲しみ、邪な欲望、だらしなさ、裏切り、つまりは不合理な暴力である。人間は暴力に不安を抱き、暴力に恐怖を抱く。なぜなら暴力というものが自分という一つの存在を破壊するに足る力を持っている、それを自覚するのが人間だからだ。この暴力は自分の外側にだけあるのではない。自分の内側にもある。それが裸である。
 彼女はその自分の中の暴力に不安を抱く。彼女はその自分の中の暴力に抑圧され疲弊している。自分では制御出来ない自分の中の暴力、持て余した感情に振り回されている。胸が苦しい。この感情というものから自由になりたい。しかし彼女はその感情を抑え込み制御する衣装を持っていない。彼女には観念、理性がないのである。自分の中に観念、理性を育てていく術も知らない。そこで彼女は主人を探し求めるようになる。自分の中の暴力を征服し、制御し、管理してくれる精神を持った絶対君主を。こうして彼女は異端マゾヒストになっていく。
 ここまで書くと明白だが、異端マゾヒズムのこの心理は大衆が権力者を或いは法を或いはキリスト教的な神を求める心理と同じで、異端マゾヒズムと私は銘打ったが人間の一般的な傾向としてはこちらのほうが正統的であろう。ただ余りにも一般的過ぎるが為に誰も皆自分がマゾヒストだとは気が付かないだけなのである。