7月11日の日記「死刑囚にして死刑執行人」

 音楽であれ文芸であれ絵画であれ、凡そ人間が芸術作品を鑑賞したいという本源的動機は一つに決まっていて、それは美しいものを前にして我という衣装を脱ぎ去り裸になりたいという願望である。自分自身を忘れて何もかも忘れて彼は今この瞬間に酔ってしまいたいのだ。故に真摯な芸術愛好者は皆マゾヒストだという事が出来る。一方、分析の冷たく光るメスを握り、現実を解剖解体して知識と教養を深め、我の内容物を豊かにするというサディスティックな願望はそのまま近代の骨格を成す科学的精神であって、そのような態度は芸術を鑑賞する者の態度としては不純であり、失格だとさえ言える。それは酒を飲みながら酔う事はせず、その酒の味を細々と難しい顔をして分析している不幸な男といったところだろう。
 しかし、芸術の製作者の側となると話は別である。彼は酔いながら醒めていなくてはならない、解体されながら解体しなければならない。ボードレールの言った死刑囚にして死刑執行人という概念である。
 人間を解剖解体してまた再び縫合合体させたとしても本当に生きている人間とはかけ離れたゾンビしか誕生し得ないのと同じで、如何程、広範で深遠な知識と怜悧な知性を以って現実を分析再構成してもそこに真実の血の通った世界は現れない。かといって理念や批評精神を欠き、ただひたすら己の衝動や情熱に任せてみてもそれは大抵作品としての統一性を欠き、不協和音が鳴り響く、独り善がりで耳障りなものにしかならないだろう。
 伝統とは形式である。その伝統がまだ生き生きと息をしていた時代、芸術家は純粋に芸術家としてその形式の中に於いて自由にただ己の衝動や情熱を表現すれば良かった。描くことがそのまま生きる事であり、歌う事がそのまま生きる事であった幸福な時代。しかし近代が訪れると共に伝統は見る影も無く死に絶えた。当然芸術は形式を喪失し、が為に芸術家は衝動や情熱を表現する前にその形式そのものを考えなければならなくなった。つまり彼は芸術家であるのと同時に批評家分析家である事を強いられるようになったのだ。それが近代の芸術家が置かれた死刑囚にして死刑執行人という状況なのだが、その殆ど無理難題と言って良い不可能に近い苦しい状況は現代に於いても何ら変わる事の無く放置されている。