七月十四日の日記「マゾッホの毛皮」

 マゾッホ谷崎潤一郎の作品を比較すると、女性崇拝という点に於いてはもちろん共通しているが、谷崎の方はマゾッホよりも女性の肉体そのものに対するフェティッシュな欲望が顕著に目立つ。一方マゾッホが描写する女性の肉体は意外な程あっさりしていて、谷崎が描く女性のような生々しさはそこに余り見られ無い。むしろマゾッホのフェティッシュな欲望は女性の着ている衣装に向けられていて、それも題名にある通り毛皮に象徴されるような衣装についてである。
 観念とは衣装であると先日私はここに書いた。しかし同時に衣装とは観念であり、それは目に見える形の観念だといえる。それは精神と言い換えでも良いだろう。精神とは反自然的なものであり、人間性そのものである。或る一人の女から衣服を剥ぎ取って裸にするという事は彼女の人間性を奪うという事と殆ど同義語なのだ。
 本来、人間性の象徴であるその衣服に野生の象徴であるところの毛皮を敢えて使用するとはどういう事だろうか。サディスティックな人間にとってそれは野蛮な自然を征服した自我=観念の輝かしい象徴となり、全てを統べる強大な権力のモニュメントにすらなる。だから権力者の毛皮に使用するのは兎や狐であってはならない。権力者に相応しいのは虎や豹、自然界の王侯貴族に属する肉食獣たちの毛皮であって、それを纏う事によって彼は王の王たる威厳に包まれるのだ。それは野蛮さの象徴ではない。強大な自然の野蛮さをも超えた超自然的な存在の象徴、つまりは自然に対する人間性の不朽不滅の凱歌なのだ。
 一方、マゾヒストにはその毛皮が真逆の性質を帯びて彼の瞳に映る。そもそも彼マゾヒストにとって自然は分析と征服の対象ではなく、畏怖と崇拝の対象であり、その自然界に於いて絶大な権力を振るい王として君臨する肉食獣の姿は比類の無い神々しい姿として彼の瞳には映り、彼にとって毛皮はそんな神か神に近しい存在が遺した聖なる遺物である。だから毛皮を纏った彼女は彼にとってもはやただの人間ではない。聖衣を纏った聖女なのであり、同時にそれは彼を殺害し食べてしまう程の力を宿した捕食者である。
 自然とは一体何であろうか。人間の精神の力ではどう仕様もないもの、どんな完璧な衣装に包まれてもそこからはみ出してしまう肉体、それは彼に死を齎す暴力である。反対に言えば人間の力でコントロール出来るようなものは自然と呼ぶのに値しない。大抵の自然愛好家自然礼賛者が言う自然とはこの人工的自然というまがい物の自然の事で、彼らが戯れているのも自然の玩具に過ぎない。
 本当の自然というものは例えるなら山で不意に遭遇する巨大な熊のようなものである。その鋭い爪のひと薙ぎで或いはその獰猛な牙のひと噛みで簡単に彼の命を奪い、瞬く間に彼を骨と肉片の残骸へと解体してしまう圧倒的な強者。その冷たく鋭い死そのものの視線に見詰められるとき、同時に彼は自然そのものに見詰められているのであり彼もまた自然そのものを見詰めているのだ。そのとき彼は裸だ。見える衣装も見えない衣装も全ては剥ぎ取られてしまう。このとき彼は想像の余地の無いありのままの現実と向き合っているのだ。
 美しいものと向き合ったときもこれと同じ現象が起こる。本当に美しいものを目にしたとき、人は自分自身を忘れる。否、目の前にあるその美しいもの以外のもの全てを忘れ去るだろう。そのとき彼は裸だ。見える衣装も見えない衣装も全ては剥ぎ取られてしまう。このときも同じく彼は想像の余地の無いありのままの現実と向き合っているのだ。
 故に死と向き合い本当の自然を求める欲求と美しいものを求める欲求は方法の差異はあれどその本質に於いて同根である。どちらも裸になってありのままの現実に触れたいという切なる願いに基づいた衝動なのだ。
 だが、毛皮を着たヴィーナスとはどういう事だろう。その狂おしい憧憬の言葉の中には自然への欲求と美への欲求という本来同じものが重複している。裸になる為には美しいものだけあれば十分なはずなのに。この事から逆説的に導かれる答え。つまり彼マゾッホは女性の素朴な美しさ、それだけでは裸になる事が出来ない程に分厚い観念の衣装を纏ってしまった人間だという事である。彼が我を忘れ、ありのままの現実に向き合う為には美しい女だけでは駄目で、それを補強する本当の自然で出来た衣装アクセサリー、毛皮や犬用の鞭や裏切りが必要なのだ。この小説自体が複雑で手間の掛かるその手続き、彼が裸になる為の儀式のようなものだったのだろう。一枚そのページを書き上げる毎に彼は一枚のその衣装を脱いでいったのだ。
 マゾッホ、彼のような男を生み出した背景には当然近代までヨーロッパ中を遍く覆っていたキリスト教社会の強固な反自然主義がある。自然から何処までも遠ざかってしまった男、近代まで自然と調和もしくは自然に隷属して生きてきた我が国に於いてこのような人物が誕生する要素は無かった。日本のマゾヒストの騎手とも言える谷崎の女体信仰でさえもマゾッホに比すると毛皮を着せる必要が無かったという点で素朴であり、それは急激な近代化が進んでいたとはいえ、まだまだ自然と調和し自然に包まれて幸福に生きていた当時の日本人の姿を示唆させるのだ。