七月十三日の日記「マゾヒズムとリアリズム」

  マゾヒストの書く小説は異様な熱気を孕む事が多い。マゾッホの毛皮を着たヴィーナスを読みながらそれを感じている。それは谷崎潤一郎の小説を読んだときに感じた熱気と同質のものである。その作品の熱気はそのまま作者自身の熱気なのだろう。牡牛のような興奮と高揚に包まれてこれを書いたのだなと思わせられる場面に数多く遭遇する。それは物語の構成や展開というよりもその描写、彼の崇拝と憧憬の具現体であるところの女についての描写に於いてである。
 マゾヒストの小説家は現実に於いては拝謁する事の叶わないサディスティックな理想の女、崇拝と憧憬の対象を言葉の世界に於いて想像し創造するのだからそこに或る種の情熱が伴わないはずがない。その狂おしい情熱の炎は彼のリアリズムを練磨し深化させる。彼自身が興奮し高揚する位に、いやそれ以上に彼の予想を遥かに上回る生々しさを持った女でなければ描く意味はないからである。彼は自分自身を打ち倒し跪かせる神々しく美しい生きている女を創造したいのだ。
 マゾッホ、谷崎の場合、崇拝の対象は女だが、マゾヒスト全般に於いてはただ女だけが崇め奉り憧れを抱く対象ではない。男性の肉体の中にそれを見出す人間もあれば自然の風景の中にそれを見出す者も居る。その回路は彼の性質によって無数に存在するだろう。ただ彼らマゾヒストに共通しているのは彼の中で失われた生の現実、その美という暴力にとって我の衣装を剥ぎ取られ裸になり更には殺されたいと願う切実な欲望である。
 サディスティックな科学的精神にとって発達していった西洋でリアリズムの絵画や小説が同時に発達していったのはその科学的精神と同様のサディスティックな欲望というよりはむしろ先述したようなマゾヒスティックな欲望に基づくもので、それは先述したマゾヒストがリアリズムを発展させる過程と丁度重なる。
 我が国に於いては明治の文明開化以前までリアリズムの絵画も小説も殆ど皆無であった。それは日本人が自然に対してサディスティックな態度を取って来なかったからであり、自然に囲われて自然に対してマゾヒスティックに生活していた我々の祖先は逆にその奥底では自然に対してサディスティックな欲望を抱いていたのだ。それは恐れ多い畏怖すべき自然を何とか丸めて抽象化或いは擬人化しそこから生々しさという暴威を剥ぎ取って型に嵌めたいという願望で、その事は浮世絵などを見れば一目瞭然だろう。言霊の精神や仏教に見られる他に類例の見られない言葉というものへの熱烈な信仰や敬愛もこのサディスティックな欲望から来ているのに違いない。言葉というものがそもそも本来広範で訳が分からなく恐ろしい自然というものにメスを入れて解剖比較分類し一つ一つに名前という衣装を貼り付けるというサディスティックな欲望によって出来上がっている。
 勿論、例外を探し出せば幾らでも見付かる事だろう。仏像の中には驚く程生々しくエロティックなものもあるし、伊藤若冲が描いた鶏の絵などは正に生きているようである。ただおそらく彼らのような観念的でサディスティックな精神の持ち主は我が国に於いては希少であり、そのマゾヒスティックな欲望に基づかれて造られた制作物が日を見る事は少なく、長い歴史の闇の中に埋もれていった作品も数多あるのだろう。でなければ江戸末期、黒船のリアリズムに誰も衝撃を受けたりしない。
 しかして現代は?科学的でサディスティックな分析批評精神を我々日本人は持ち得ているのか。江戸明治大正昭和の人間たちよりも日本人は理知的で合理的になったのか。電車の中で例外なく見掛ける光景、痙攣的に指を動かしながら浅ましい痴愚のような顔付でスマートフォンの画面に見入って座って並んでいる人間たちを見る限り私はその問い掛けに沈黙せざるを得ない。
 とはいえ私がこうして考えた事を書いて発表しているのも私自身に一番欠落しているものがこのサディスティックな分析と批評の精神であるという事に重たい腰を上げて本格的に小説を書き始めて気が付いたからである。