阿片と消費

 質を感じ取れなくなった人間はその不足を量で補おうとする。現代人が消費している物質や生命のかつてとは比較も不可能なその圧倒的な量の多さはそのまま彼らの質に対する感受性の劣化ほとんど死同然の没落を物語っている。速いということもまた量が多いということなのだ。一秒に一枚の絵と一秒に十枚入れ替わり映る絵。一枚の絵を味わう力がなくなってしまった。だからその不足を十枚の絵の量で補っているのである。映像文化にSNS。子供の頃からそのめまぐるしい量に浸され、めまぐるしい量が現実になっている現代人は当然その欲望もめまぐるしく、彼らは莫大な量の消費を求め、だから彼ら自身もめまぐるしい量の意識や感情を抱え込み、いつも落ち着かなく、神経質で疲弊している。だから現代人はめまぐるしくない、心の落ち着ける、平穏や安定を求める。保守的で冒険はしない。冒険するにはあまりにも彼の心は不安定でめまぐるしく動き過ぎているのである。かといってもう質を感じ取る感受性も能力もないから、彼らは何もない、何も動いていない、沈黙の時間に耐えることが出来ない。だから結局めまぐるしさから抜け出すことが出来ない。莫大な量の物や生命や人間を消費して自分自身も消費されていくこの濁流から逃れることが出来ない。阿片患者が阿片に手を出すようにめまぐるしい変化、量の消費を求めてしまう。しかしそんなことは消費社会では当たり前のことなのである。物や人を消費、それも大量に消費してくれなければ経済は回っていかないのだから。阿片の売人が生活していくためには阿片に依存してくれる患者が絶えず必要なのだ。ただ阿片と消費、その両者にひとつだけ違うことがる。それは阿片の売人自身は阿片を吸わないのに対し、消費の売人たちは彼ら自身も消費に依存する患者、消費者であるということである。