尻尾

 陽が落ちて玄関の前を通ると、何かの気配が素早く靴箱の陰に隠れたのを見止めた。ゴキブリにはもう見慣れていてそれがゴキブリでないことは直ぐにわかった。更に良く見てみると靴箱の陰から白く細い尻尾がはみ出している様子が伺えた。それはまだ身体の小さい子供のヤモリだった。
 どこから侵入してきたのかわからない。しかしこのまま放って置いたら我が家の番猫茶呂氏に虐待拷問の末殺害されることは必至である。捕まえて家の外に逃がすため、私はヤモリ君に腕と手を伸ばした。しかしヤモリ君は直ぐに気配を察して靴の陰の更に奥へと隠れてしまった。動きの素早さはゴキブリ氏に勝るとも劣らない。私は仕方なく靴を一つ一つどけてヤモリ君を捜索した。最後の靴をどかしている最中、ヤモリ君は勢い良く飛び出して来た。かと思うと素早く壁に登り、壁に立て掛けてある絵の裏側へと忍者のように隠れてしまった。私はヤモリ君を手で掴むことの困難さを悟り、階段を上がって箒と塵取りを持ってくるとまた階段を素早く下りた。それは箒で掃いヤモリ君を塵取りの中へと落とす作戦であった。
 早速、塵取りを絵の額縁下に構えて準備は整った。箒を額縁の裏に差し入れてヤモリ君が飛び出して来るのを待った。直ぐに箒の毛先でヤモリ君の柔らかい感触が感じられた。その瞬間、ヤモリ君は勢い良く壁から空中へと飛び上がった。すかさず受け止めようとして私は塵取りが握られた手を落下するヤモリ君の下に伸ばした。しかしやや位置がずれてヤモリ君は私の腕の上に着地してしまった。
 奇妙な沈黙。私は塵取りを持つ手と腕を宙に伸ばしたまま動けなくなった。ヤモリ君も私の腕の上が余程気に入ったのかあの丸い吸盤の様な指先を張り付けてじっと動かなかった。ゴムの表面の様な滑らかでしかしゴムには無い生き物の温かさが私の腕から伝わるともに(しかし彼ら爬虫類にそんな体温はあるのか?)天上から差す蛍光灯の蒼白い光がやや湿り気を帯びたヤモリ君の円らな黒い瞳を縫いぐるみの瞳の様に煌かせ(トカゲには無い愛くるしさだ)私はその感触と美しさに束の間浸った。しかし感慨に長く浸っている暇は無かった。またいつヤモリ君が腕から飛び出すかわからないのだ。私はヤモリ君が乗った左腕及び左上半身を動かさないように気を使いながらゆっくりと右手で玄関のドアを開けてそのまま外へと出た。もちろん靴を履くことは出来なかったから裸足だった。
 知らぬ間に雨が降っていたのか雑草が生い茂って落ち葉が積み重なっている庭の上は酷く湿っていて裸の足の裏がとても気持ち悪い。私はヤモリ君が落ち着ける場所を探して歩いた。こんなことは早く終わらせてしまいたい。庭には蚊もたくさん飛んでいるし近所の淑女(おばさんたち)の目もある。塵取りを片手に裸足で庭を歩く男、しかも腕にはヤモリを乗せている。幾ら何でも怪し過ぎるだろう。そんな気持ちもあってか動きが自然と乱雑に素早くなってしまったのかもしれない。ヤモリ君は突然腕の上から空中へ飛び上がった。驚いた私はもう既に真っ暗な庭の中にヤモリ君を探し始めた。
 幸い、落下したヤモリ君は直ぐに見つかった。ヤモリ君は足元にある草むらの陰に落ちていた。しかし私は不安になった。ここは家の人が頻繁に通る場所である。もしかしたらヤモリ君が家の人に踏まれてしまうかもしれない。面倒だが再びヤモリ君を捕獲して家の裏付近に移動させることにした。
 私は草むらの陰に潜むヤモリ君に手を伸ばしだ。ヤモリ君は素早く逃げたが何とか手に捕らえることが出来たように思えた。しかし手を開いてみるとそこには切り離されたヤモリ君の尻尾だけが残されていた。驚いた私の手の中で、尻尾はまるで生きているミミズの様にくねくねと不気味に動き回っている。しかしそれよりもヤモリ君の本体を探さなくてはと周囲を見回した。意外にもヤモリ君はまだ近くにいた。今度こそはと慎重に私は手を伸ばし実際今回の捕獲は見事成功した。
 ヤモリ君は手の中で激しく抵抗し動き回っていた。私はそんなヤモリ君を何とか押さえて暗い庭の茂みの中を歩いた。気が付かない内にヤモリ君の尻尾は消えていた。無意識に何処かへ放り投げたのかもしれない。間もなく家の裏の壁付近に辿り着いた私はヤモリ君を壁と地面の間の隅にそっと置いた。ヤモリ君はまだ警戒しているのか壁と地面の隅にじっとしていた。暫くそんなヤモリ君を眺めていたが、耳元に蚊の羽音が聞こえ始めて慌てた私はヤモリ君に背を向けると再び暗い庭の中を駆けだした。
 纏わりついて来る蚊を避けながら裸足で庭を駆け抜け、玄関のドアを開けて家の中へと入った。一息つくのと同時に足の裏の汚れが気になった。蚊にも腕や脚を沢山刺されていた。私は風呂場へ行くために廊下を歩き始めた。
 風呂場は天井の電灯が壊れていた。しかし誰も直さないのでもう半年以上このままだった。薄暗かったが完全な闇ではなく、風呂の窓から射す月光が銀色の浴槽やプラスチックの洗面器を薄ぼんやりと浮かび上がらせている。シャワーの栓をひねると勢い良く湯水が吹き出した。湯水もまた月の光を浴びて薄暗い風呂場に光の粒が放射状に飛び散った。
 足を洗うために石鹸を泡立たせようと両手を擦り合わせたときだった。手の中に泡だった石鹸の柔らかい感触がヤモリ君の切断された尻尾の感触を蘇らせた。その感触は直ぐに暗い庭と手の中で動き回っていた尻尾の姿を頭に浮かばせ、気味の悪いそのイメージは暗い風呂場や手の中の白い泡と重なって段々と生々しくなっていった。私は直ぐに白い泡をシャワーの湯水で洗い流したが、一度蘇った尻尾の感触と映像はしつこく、それから暫くの間、脳裏を離れなかった。
 洗い終えた足を拭いて私は部屋に戻った。感触やイメージそのものは大分薄れたものの頭の中では未だヤモリ君の尻尾のことを考えていた。特に考えていたのはあの尻尾の不気味さを形作る要因についてであった。
 動き回る尻尾の視覚的効果や触れていたときの感触といった具体的なイメージが不気味さの要因の一部を形作っていたことは当然だが、それ以上に、或るひとつの存在の身体本体から分離した身体の一部が僅かとはいえ一定の意志を持って動いていたという事実が不気味さを沸き起こした本質である様な気がした。
 ヤモリ君の身体から切り離された尻尾は私の手の中でミミズの様に動き回っていた。おそらく今頃は活動を停止しているだろうが、シャワーを浴びていたときぐらいまではきっとあの暗い庭の茂みの中でくねくねと動いていたに違いない。
 しかし仮に尻尾にも身体本体と同じようにエネルギーを補給する器官があれば、あの尻尾は本当のミミズの様にあの庭の草や土の中で生きていったに違いない。そしてとある日、本体のヤモリ君と尻尾のヤモリ君は庭で出会うかもしれない。どちらが本当のヤモリ君かどうか考えると、どちらも本当のヤモリ君でありどちらも本当のヤモリ君ではない気がしてくる。少なくとも最初私が玄関の靴箱の陰に発見したヤモリ君はもうこの世界にはいない。しかしそう考えるならばあのときの私自身も厳密に言えばこの今の世界にはいない。この一連の捕獲劇の間に私の髪の毛は何本か落ちているだろうし、私の血液の幾滴は蚊に吸われて無くなり、私の足の皮膚の細胞は風呂場で洗ったときに幾らか下水溝へ流されていることだろう。完全に同一の肉体は過去にも未来にも存在せず、それは川の流れのように絶えず流動的に変化している。自分では気が付かないうちに、私が通り過ぎた時間の背後にはヤモリ君の切り離された尻尾と同様に私の肉体の一部が山の様に取り残されているのだ。しかし、そのことに対してはさほど不気味さは感じられない。やはり不気味さは切り離された尻尾が動いていたことにある。私から分離した髪の毛も血液も細胞も意志を持って動いたりはしない。或いは顕微鏡で覗けば血液や細胞は動いている姿が見えるかもしれない。しかし、元々髪の毛も血液も細胞も私の意志では動かすことの出来ないものであり、彼らは私の与り知らないところで日々勝手に活動しているのであり……と考えてる途中で「彼ら」という言葉が私の思考を立ち止まらせた。私の肉体の大部分を構成している彼らは果たして私なのだろうか?しかし彼らが私ならば彼らを統括して認識している私は誰なのだろうか?
 私は机の上の鏡を見た。そこには顔が映っていた。私の顔だった。しかし、暫く眺めているうちに一つの顔が、髪の毛、額、二つの瞳、鼻、耳、頬、上下の唇、顎といったパーツに一つ一つ分解されていき、各パーツがそれぞれ一つの独立した存在かのように思われてきて、すると鏡に映っているものが一つの顔だとはどうしても認識出来なくなってきた。輪郭もぼやけ始めて、それは何か蒼白いクロスが敷かれた床の上に瞳や鼻や上下の唇などがただ置かれているかのように見えた。
 やがて音楽の様なものが聞こえ始めた。しかし右の耳からは聞こえるのはフォーレパヴァーヌを近所の音大生が弾いているピアノの音であり、左の耳からは聞こえるのはこれまた近所の誰かが読経する声だった。目玉は左右ばらばらに動き回り、右目は鏡に映る顔のようなものを見詰め、左目は手の中で動き回るヤモリ君の尻尾を見ていた。右の鼻の穴からはカレーの煮える匂いが、左の鼻の穴からは黴臭い部屋の臭いがした。頻りに動く二つの唇は意味を為さない言葉を発し続け、右の頬は笑い、左の頬は泣き、黒い髪の毛は一本一本が線虫の様にくねくねと動き回っていた。
 恐怖して私は後ろに退いた。しかし身体は微動だにしていなかった。私は私の肉体を全く喪失していた。いや、そもそもそんなもの一度たりとも所有したことはなかったのだ。
 かつて私の顔を構成していた部品たちは蒼白いクロスの上で思い思いに動き回っていた。解放の喜びを全身で表現する様に、それはまさにパーティーだった。賑やかなパーティーは首から下、上半身、下半身へと徐々にその参加者を増やしていき、やがて私の全身がその狂気の宴に参加した。顔と身体を失った私は会場の外から楽しそうなパーティを眺めていることしか出来なかった。物欲しそうに咥える指さえもなく、私は肉体の本体から永久に切り離されたのだった。