傷跡

 月の見えない暗い夜が明けると太陽の見えない白い朝が訪れた。
 二つの瞳は夢から半ば覚めていなかった。白い蛍光灯が縦一列に並んでいる天井が酷く眩しく見える。熱を感じさせない観念的なその光は吊り革の丸いプラスチック製の輪、中吊り広告紙の表面、ステンレス製の網棚や手摺り、エナメル質の白い床、シート座席の前に投げ出されている革靴といった列車内の物質に硬い光沢を纏わせ、橙色のシート座席に座っている乗客たちの顔を一つ一つ鮮明に照らし出していた。毎朝見掛けているその顔たちは皆一様に寡黙でモノレールの列車が線路の上を滑る音だけが車内に響いている。その音も地上を走る普通の電車に比べると非常に大人しく、意識していないと忘れてしまう程で、むしろ耳にする頻度が一番多い大きな音は列車が駅に到着する毎に開閉する自動ドアの作動音だった。その音が聞こえて来る度に微睡みの淵へと沈みかけていた意識が再び現実へと戻され、ぼやけた双眼に見慣れた駅名板と開いたドアから入って来る見慣れた乗客たちの姿が朧げに映り込んだ。一日の汚れや垢の臭いに未だ汚染されていない清潔な始発運行列車の中に乗客たちは少しずつ生活の腐臭を運び込んで来た。しかし昼間のましては夕方の列車内におけるあの耐え難い生活の腐敗臭と比較するとやはりそれは遥かに清潔な車内と言うことが出来た。
 列車と列車間の連結部には仕切りのドアが設置されておらず、座席に座っていても右や左に視線を遣れば先頭から最後尾に至るまで列車内部の全景を見渡すことが出来た。清潔と静謐の中で蛍光灯に照らされている白い床と両脇の細長い座席に座っている人間の俯いた横顔が真っ直ぐに延びている様子は病院の長い一本の待合い廊下を思わせた。しかし暗鬱な表情をして彼らを待っているものは病気の診断結果ではなくてこれから始まる膨大な一日の耐え難い重圧であり、そういう意味では懲役刑の執行を待つ囚人を乗せて走る護送列車と言い直した方が適切であった。受刑者たちの数は音を立ててドアが開く毎に黙々と増えて、同時に刑の執行される時間も確実に迫っていった。それは夜と朝の狭間を走る列車であり、車内の清潔さや静けさが作り出している安全と秩序の雰囲気がかえってこれから先乗客たちに降り掛かる太陽の暴力と未だ生々しく夜が残る彼ら自身の内に渦巻く闇の暴力を鮮明に際立たせているのだった。
 直線的に延びた白い廊下と両脇の長椅子に座り込む人間たち、それは一枚の陰惨な静止画の様に永久に動きを見せないかの様に思われたが、列車が線路のカーブに差し掛かると先頭の車両から順番に右や左にずれていった。顔や身体は依然として微動だにしないままに、今までは見えていなかった一番奥の車両の人間の顔が見え始め、同時に今まで見えていた中腹の車両の人間の顔が消えていく、或いは逆の現象が起こった。手前に見える横顔だけは如何なる時も動かなかった。
 それよりも更に注意を引くものがあって、それは列車がその細長い車体を曲げた時に露見する列車と列車を繋ぐ連結部の蛇腹であった。あらゆる構造物がステンレスやガラス、プラスチックといった硬い物質で構成されている鋼鉄の列車内において柔らかそうな灰色のビニールで作られている蛇腹がうねうねと曲がりくねっているその様子はそこだけが異様に生々しく有機的で不吉にさえ映った。それは戦士の全身を完璧に包み込んでいると思っていた鉄の鎧兜に隙間とそこから覗く肉の肌を見つけてしまった時のように、熱中して読んでいた難解な哲学書のページの上に小さな虫が動いている姿を発見した時のように、完全無欠であると思い込んでいた鋼鉄の観念が不意に裂けて生の現実が顔を現す瞬間だった。傷付けられた人体の皮膚と同様にして一度引き裂かれたた観念が回復するには長い時間を必要とし、その間、鎧の戦士は唯の脆弱な肉の塊へと堕落し、哲学書は無意味な文字記号が黒いインクで染み込んでいる唯の紙へと堕落する。それは普段人間によって意識の地下室へと巧妙に且つ厳重に隠蔽監禁されている生の現実が人間に対して復讐する瞬間であり、こういう時に私はいつも生の現実の甲高い笑い声を聞いているような気がする。時にはその顔姿までが心にはっきりと浮かんで来ることもあって、それは挑発的で豊満な肉体を真っ黒なドレスに包んでいる魔女だった。優雅に伸びた両腕の先に細い指の一本一本が独立した生き物の様に蠢き、鋭く尖った鉤爪が空中に赤い軌跡を描いている。気品ある白く細い首元には逆さの十字架に絡まっている髑髏のネックレスをぶら提げ、嘲弄と侮蔑に歪んだ笑窪と蠱惑的な赤い唇からはありとあらゆる下品で下劣な罵りが最も高貴な言葉で語られる。高慢さの象徴である高い鼻、救いや同情の声などには一切反応しない冷酷に尖った両の耳、やはり嘲弄と侮蔑に歪んでいる細長い眉の付け根、長い睫毛の下に隠されがちな暗い夜そのものを映し込んでいる虚ろな瞳……全ての物を飲み込んでしまう相対性の黒い魔女。
 唸る様な囁く様な声を響かせて巨大な蛇に変身した魔女が今もその艶めかしい蛇腹を右に左にくねらせている。不安や不快感が心に押し寄せて私は列車の連結部から目を逸らす。しかし気が付くと直ぐ蠢く蛇腹の襞に見入っている。見たくないのにどうしても見てしまう。それは自分の肌に出来た裂傷を絆創膏を捲って何度も何度も見てしまう、更に重症化すると傷口に指先を這わせてその苦痛を味わおうとする、あの感覚に酷似していた。
 普段から意識の散漫な私は道端で転んだり硬い机の角に脚をぶつけたりするなどして腕や脚に怪我を負うことが少なくはなかった。そうして怪我をする度に肌の表面に造られる傷跡や青痣は酷く私を高揚させた。更にもっと酷い傷を負い、鮮血が流れ出した場合などは尚の事私の興奮は音楽の様に高まった。
 偶然の怪我は自分を包み込んでいると頑なに信じていた肉体という観念の鎧を容易に破壊した。肌の裂傷、青痣、赤い血は私内部の露出した生の現実であると同時に刻みつけられた外の世界の生の現実だった。傷跡は私の内と外の現実を一つに繋ぐ結合地点、私の肌に刻まれた世界そのものの爪痕だった。傷跡が自分の身体に出来たその夜は恋人につけられた首筋の噛み跡を愛でる様に新しい傷跡を撫でてながら安心してベッドの上で眠った。
 しかしリストカットが常習化している人々の様に自分自身で自分の肌を傷付けようとは思わなかった。或いは或る種のマゾヒストたちの様に誰かの指に握られた薔薇鞭に尻を打たせようとも思わなかった。自分の意志が僅かでも混入していたらそれは純粋に外の世界の生の現実が付けた傷跡ではなくなり、私の内側と外側を一つに繋ぐ聖痕としての資格を失うからであった。完全に偶然、つまりは不意に訪れる運命の一撃だけが唯一正統な傷跡を創成することが出来るのであり、更にはこうして傷を受けることを望み意識している状態で傷を受けることさえも傷跡の純粋さを著しく傷付けるものだった。だから自暴自棄の人間に聖痕が刻まれることは永久にないのであって、その点、私は或る程度合格点に達しているようだった。それが擦り傷であれ青痣であれ出血であれ、普段日常の私は自分の身体が傷付けられる事を他の何よりも恐れ且つ拒否していた。
 しかし、繰り返し連結部の蛇腹に目を遣ったり逸らしたりしているうちに段々と私は軽い吐き気を伴う眩暈を感じ始めて完全に視線を前方へと固定した。このままその暗い淵に意識を向けていては度々私を襲う狂気の発作が発動するという予感がしたからであった。
 視界の向かい側には幾何学模様がプリントされている橙色のシート座席に乗客たちが並んで静かに座っていた。その顔の殆どは俯いていて、例外的に俯いていない顔の大抵は口を開いて眠り込んで居る顔だった。寝顔は間抜けでもあり無邪気にも見えた。それは人間から人間性の全てを剥ぎ取った顔、つまりは一動物の顔であって、間抜けさや無邪気さといった印象はそこから来るものであったが、一動物の顔には危険さも醜悪さも皆無で、永遠に目覚めなければ私はこの顔を愛することさえも出来たかもしれなかった。しかし一方で目覚め始めている顔というのはとても直視出来るものではなかった。それは醜悪さから目を背けるというよりもそうした顔が私に恐怖や不安を呼び起こすからだった。
 より厳密に言い表わすならばそれは顔というよりは形成される過程の顔だった。長い夜の間にばらばらに分裂して夜の体液に溶け切った顔は良く晴れた朝ならば朝陽を浴びて迅速且つ順調に形を作っていくのだが、曇って朝の光が乏しい今朝のような条件下では顔の制作工程が著しく停滞するらしかった。中途半端で脆弱な構造しか持っていない顔はその中にある膨大な夜を覆うことが出来ずに、目玉は真っ赤に充血し、顔全体が吹き出物の様に腫れて、毛穴という毛穴から夜が絶えず漏洩している様に見えた。それは無限の夜を圧縮して閉じ込めている爆弾であり、爆弾が周囲に暴力を撒き散らすものならば爆弾そのものと言うことも出来た。
 列車の橙色のシート座席の上に爆弾が所狭しと並べられいる。爆弾自身も自らが爆弾であることは十分に自覚しており、瞳を閉じたり俯いているのは爆弾を刺激して暴発することを防ぐ為であった。爆弾が爆発して最初に破壊されるのは作り始めている自分の顔であり、それは自分自身が破壊されるのと同義語であることを爆弾自身が一番認識していた。
 しかしこうして動物の顔や爆弾の顔を眺めていると、普段昼間太陽の下で見ている顔が如何に作り物なのかが良く理解出来る。結局、顔というのは衣装と同じで本当の中身を隠すものに過ぎないのだろう。その本当の中身というのは夜であり暴力、更に突き詰めれば虚無であって、ただその虚無を覆い隠す方法の差異が顔貌の差異として現れて見えているに過ぎないのだろう。
 それならば一体私は今何を見ているのか?顔ではない。夜と溢れ出ようとする夜を見ているのだ。しかしそういう私自身も目玉が真っ赤に充血し、顔全体が吹き出物の様に腫れて、毛穴という毛穴から夜が漏洩している、今にも爆発しそうな夜の爆弾だった。つまりは夜が夜を眺めているのであった。しかし視線の先に見える夜の傍らに見える窓からは歴歴然とした朝に包まれている外界が映っていた。私の視線は重苦しい夜の顔たちから逃避する様に窓の外の景色へと吸いこまれた。
 窓の外から見える空は遍く白い雲に覆われていた。しかし限りなく密集して飽和状態にある雲はもはや雲としての意味を失い、そこにあるのはただの白い空だった。その白い空の遥か下界には住宅の屋根や自動車が列を作っている道路、時折広大な畑や野原も見えた。走馬灯の様に窓枠の中に現れては瞬く間に消えていく下界の風景は視線の先にどこまでも続いていくかの様に思われた。しかし、彼方の地平線に厳然と聳え立つ蒼黒い山脈が広がっていこうとする風景をその豊かな下半身を盾に堰き止めていた。狂暴な竜の下顎に並んでいる鋭い歯を思わせる山脈の稜線は視線の端から端まで途切れることなく続き、その雄大な体躯は列車がどんなに移動しても微動だにしなかった。
 天上は白い空に塞がれて、視界の奥行きは蒼黒い山脈に遮られ、それは無情な観念の世界に逃げ場なく閉じ込められているのだという感覚を強くさせる窓の景色だった。しかし、良く見ると白い空と蒼黒い山脈の間には青い空が垣間見えていて、白い空、青い空、蒼黒い山脈という縦並びの一枚絵が視界の奥に完成していた。白い空と蒼黒い山脈の間になぜ青い空が見えるのか最初解らなかったが、暫くして、この近辺一帯の空は白い雲に覆われているが蒼黒い山脈の上方に限ってのみ晴れ渡っているのだということを理解した。同時にその垣間見えている青空に私の意識は強く惹き付けられた。なぜなら真っ直ぐに引き裂かれたその青い一本線が白い天井と蒼黒い壁に包囲されている密閉空間に唯一開かれた脱出口の様に映ったからであった。
 それはドアや窓が無く完全な密室状態だと思われていた部屋の白い壁に小さな穴を発見したようなものだった。穴にぴったりと張り付いた瞳にとってそこから見える青い空は狭い部屋に対する広い世界の、有限に対する無限の象徴として映り込むだろう。やがて小さな穴は狭い部屋に閉じ込められている彼にとって広大無辺の世界に通じている唯一の脱出口として輝き始めるのだ。
 しかし、もし仮にだが部屋にドアや窓が付いていた場合はどうだろう。白い壁に空いている小さな穴は脱出口としての意味や条件を失い、脱出という行為そのものが不可能になる。脱出を可能にするためには密室が必要であり、脱出口の輝きが出現するためには完全に部屋を塞いでいる白い天井や白い壁が必要なのだ。
 今、街の上を走るモノレールの長椅子に座って窓の外に眺めている彼方の青い空がこの狭い車内及びこの小さな街からの脱出口として急速に輝き始めているのは私の頭上を白い空が覆い隠し、更には視界の行く手に厳然と巨大な蒼黒い山脈が立ち塞がっているからだった。脱出口が完成するためには、つまり密室が完成するためには白い雲に覆われた空だけでは不完全であり、晴れた空と蒼黒い山脈だけでも不完全で、今朝の様に白い雲に覆われた空と蒼黒い山脈が現れることが絶対的な条件なのだ。
 しかし、この密室も私にとって完全な密室ではないことは、瞳こそ夢から覚め切ってやや熱くなり始めたものの身体の方は依然として柔らかい長椅子に深く沈まったままである姿勢からも明白であった。何度も何度も窓硝子にぶつかり最後には力尽きて窓の縁で死んでしまう蠅や黄金虫にとっての部屋や窓硝子程の意味にまではあの白い空や蒼黒い山脈も青い空も私の中で到達していないのだろう。
 結局は、精神的にであれ肉体的にであれ自己の存在を圧し潰す様な恐ろしい危機だけが脱出を可能にするのだろう。つまりはこう言い換えることも出来る。自己の死に瀕している絶望的な瞬間にのみ彼は本当に自己を生きようとすることが出来るのだ。
 しかし私が今こうして通勤の車内に揺られて仕事場へと向かっているのも、仕事に行かなければ肉体的精神的危機を迎えるからであった。とはいってもさほど大した危機などではないことは通勤する私の緩慢な態度からも伺える。本当に危機で本当に脱出口がその先にあるのならばこうして脇目を振って窓の外など見てはいられない筈だ。完全な危機に瀕している人間は脱出口以外に注意を向けることはないし、自分の中にあるありとあらゆる力を動員してそこに向かっていくだろう。
 そうした推測からは逆説的な事実が導き出される。それは恐ろしく精力的で活発に動き回る人間、つまり本当に生きている様に見える人間の内側は絶えず精神的肉体的崩壊の危機に瀕していているということである。彼は絶えず彼自身を襲う破滅の危機から逃れるために絶えず活発に動いているのである。
 しかし、それならば生きているとはただ単純に死から逃避しているだけなのかもしれない。その死とは肉体的な死というよりも自分自身の死である。
 自殺者の瞳に世界は刻々と自分自身を圧し潰す完全な密室の様に映り、だから必死に脱出口探し続けるが、最終的にやっと見つけた壁の小さな穴こそ死そのものなのだ。小さく丸い穴は彼の中で徐々に膨張を開始し、やがて視界の全てを覆う巨大な太陽へと成長する。それは客観的に第三者の瞳から見れば黒い虚無のブラックホールなのだが、究極に追い詰められた人間の瞳には燦燦と輝く光と生そのものである太陽の如く映る。永遠で普遍的な神とほぼ同義語であるその太陽の光や熱に自分自身を同化させることが自分自身を普遍化し永遠に生かし続ける唯一の方法だと考えて、彼は夏の虫たちの様に太陽に向かって飛んで行くのだ。
 と考えたとき、突然私の心に日の丸が浮かんだ。同時にあの国旗は密室の白い部屋に空いている丸い脱出口なのではないだろうかと考えた。しかしその穴から見えるのは青い空でも黄色い月でもなくやはり太陽なのだった。それも白い空に赤く燃えている太陽であって、同時にそれは白い観念が引き裂かれて顔を見せた赤い現実であり、白い死に装束を身に纏って果てた人間の打ち落とされた首に浮かぶ赤く丸い傷跡だった。