ロマンティックの源泉

 今日は34回目の誕生日。私は毎回この日が来る度に何か素敵な出来事が起こるのではないかと意味もなく胸を躍らせている。しかし当然の事ながら毎回その期待は裏切られ、34回目の今日もそんな素敵な出来事は起こる事はなかった。誕生日だけではない。クリスマス、大晦日、夏祭りの日、私は同じように訳の分からぬ期待で胸を躍らせ、結果的にいつも失望と落胆に沈んでいる。まるで子供だ。しかしこの性質は死ぬ迄治る事がないだろう。私もまたロマンティックの病に冒されているのだ。

 しかし、素敵な出来事、ロマンティックとはそもそも一体何だろうか。今まで漠然としていたそのイメージを今の私ははっきり明瞭に説明する事が出来る。それは詩が訪れる劇的な瞬間だ。それは言葉の世界と現実の世界、太陽と月がぴったりとひとつに重なり合う強烈な瞬間だ。私は普段、暗く冷たく乾いた月の砂漠を歩いている。私は普段、月の丘に一人立って熱くしかし悲しい狼の瞳で彼方に浮かぶ太陽を見詰め続けている。降りて来い。降りて来い。私の太陽。それは言葉が現実に降りて来る瞬間。言い換えるなら、あの夢と幻の世界とこの現実の世界との間に眩く荘厳な虹の架け橋が現れる瞬間。その時こそ私がロマンティックと呼んでいるものが顕現し、私の周りに素敵な出来事が光の如く充ち溢れるのだ。

 では一体何故、その素敵な出来事、ロマンティックを探し求めているのだろうか。それが私にとって未知のものであるからだろうか。いや、そうではない。私はロマンティックを知っているのだ。それは遥か私の幼年期に満ち溢れているものだった。かつて太陽と月とはひとつのものだったのだ。眩い光と熱に包まれた黄金の楽園、その中で私は素敵な事だけに囲まれて生きていた。そこに特別な日などなかった。毎日が特別だったからだ。そこには詩すらもなかった。詩そのものの世界に詩は必要ないからだ。紛れもなくそれは私自身の神話時代だったのである。しかし幸福で完全なその神話の時代も遥か昔に終わってしまった。私が夢と現実、その言葉を知った瞬間から黄金色に輝く私の神殿は脆くも崩れ去っていったのである。私は永遠の流浪者となった。しかしだからこそ私は私自身に失われたその故郷、私がかつて誕生したエデンを探し求めているのである。それは尽きる事のないノスタルジア。光そのものへの胎内回帰。それこそが私のロマンティックに対する切望と探究と冒険の源泉なのである。

 さて、この文章は34回目の誕生日を機に私にとって苦手な日記というものを綴り始めようと決意して書いた文章なのだが、書いているうちに誕生日は過ぎて翌日に、更に推敲していたらその翌日も終わりそうになっているという有り様で、今日の日記にはまだ当然手を付けてもおらず、前途多難。私の日記への挑戦は始めから暗礁に乗り上げているという始末なのである。