冬の終わり

 大海の彼方で産声を上げた春の嵐は真夜中になるとこの街の辺境にも姿を現し、荒波が岩礁に砕けるような雨音や鯨の鳴き声のような風音が鎧戸に閉め切られた部屋の暗闇にも遠く響いていた。鳴り止まぬ風雨の音は部屋の中で眠り込んだ男を幾度となく揺り起し、その度に嵐の海に漂う船の一室に居るような感覚を男は覚えた。時折耳にする家の木柱が軋む音が舟板や帆柱が軋んでいるような音に聞こえてそれが尚のこと航海の感覚を強めていたが、朧げな男の意識はそれ以上の想像を膨らませることなくまた眠りの底へと沈んでいった。

  嵐は夜の波が東の地平線から引いていく夜明けの時間帯になっても未だ街に居座り続けていた。ほぼ完全に目を覚ました男は布団から起き上がって真っ暗な部屋のドアを開けると階段の踊り場に出てそのまま座って煙草を吸い始めた。階段の踊り場は仄かに暗く、眠り込んだ天井や壁がくすんだ色にぼんやりと浮かび、階下へと螺旋状に伸びた階段は一段毎に暗くなって階下付近では完全な闇に溶けていた。暗さの中で煙草を片手の指に挟んだ男の視線は自然と仄かに明るい正面の窓へと注がれた。朝の光にうっすらと蒼褪めた窓の曇り硝子には雨粒とともに白い花びらが幾枚か張り付いていて、煙草を灰皿に置くと男は吸い寄せられるように窓へと近付いていった。窓を引き開けると抑え込まれてい朝の光と湿った風が勢い良く顔を撫で付け、男は冬の終わりと微かな春を嗅いだ。外の世界も依然としてまだ薄暗く、藤色に染まった空と黒い街の影を背後に家の庭は湖の底のような薄い藍色に包まれ、石垣が立ち並んだ庭の門付近では蒼い雨に打たれ黒い枝を大きく揺らす梅の木の周りで白い花びらが紙吹雪のように舞っていた。

 昼を過ぎた頃になると雨はすっかり降り尽くされて、煌々と太陽が輝く青い空の下に生暖かい風だけがまだ強く吹いていた。昨日まではあれほど隆盛を極めていた冬の帝国も今では道端の小さな水溜りの中に封じ込められ、或いは視界の彼方に見える蒼い山脈の上に覆い被さった灰色の積乱雲の中へと追いやられていたが、それもじきに太陽と烈風に掻き消される運命だった。
 春の訪れよりも冬の終わりを肌に強く感じて、男は街の上空に浮かんでいるモノレールの駅の銀色の柵に囲われたホームの岸辺に立っていた。杖のように身体を支えている折り畳まれたビニール傘には雨粒の名残りが汗のように光り、床に並べられた小さな正方形タイルの隙間にもうっすら雨水が染み込んでいる。男の視線の先には空中に浮かんでいる線路を隔てて対岸のホームが映り、人影疎らな対岸のホームには眼鏡をかけた中年の女がやはり男と同じように傘を杖のようにして立っていた。女はひどく眠そうな顔をしていてぼんやりと前方を見ている。男が右を向くと視線の先でホームは途切れ、両岸のアーチ屋根とホームにトンネルの出口のように切り取られた街の上景にジェットコースターの線路のように曲がりくねった線路が高く聳えたビル群の狭間に見える青い空へと延びていた。
 男は再び視線を前方に向けて電車を静かに待った。対岸の女は相変わらずひどく眠そうな顔をしている。電車は暫く来そうになかった。すると視界の上端で何かが動いていることに男は気が付いた。すぐに見上げると二羽の鳩が仄暗い屋根裏の鉄骨の上で盛んに動き回っている。二羽は雄と雌らしく、雄鳩は天鵞絨の光沢に輝く胸元を毛毬のように膨らませて雌鳩の嘴を熱く求めているのだが、灰色の楔模様にしおらしく身を包んでいる雌鳩は猛々しい風を袖に流すように雄鳩の激しい求愛を可憐ともいえる優雅さでかわし続けていて、袖にされた雄鳩はめげるどころか尚のこと興奮して雌鳩の嘴を追いかけていた。やがてようやく雄鳩が雌鳩を捕らえると、二羽とも瞳を閉じて鉄骨の上で時が止まったかのように熱いくちづけを交わし始めた。しかしまた不意に突然雌鳩は嘴を突き離して顔を虚空へと逸らしてしまい、雄鳩は突然熱いミルクの瓶を取り上げられた幼子のように一瞬の間ぽかんとした表情を浮かべていたがすぐにまた雌鳩の影を追いかけ始めた。
 仄暗い屋根裏の鉄骨の上に吹き荒れる恋の嵐はさながら暗幕を背景に演じられる恋の舞台劇のようであったが、観客は男唯一人であり、対岸の女は相変わらずひどく眠そうな顔をしていた。
 劇も終盤に差し掛かり、ついに興奮の絶頂に達した雄鳩が焼けた栗が弾けるように宙へと飛び上がると雌鳩の上にぽんと乗った。その際一枚の白い羽根がポケットから滑り落ちた切符のように虚空へと舞うと、羽根は鉄骨の上から下へ、男の頭上から銀の柵の外側へ、対岸のひどく眠そうな女の姿形を撫でるように落ちていき、やがて空中の線路の脇へ、見えない下界の街へと落ちていった。
 程なくして駅の天井から垂らされた電光掲示板に橙色の文字と記号が点滅して電車が駅にやって来ることを予告した。屋根裏の鉄骨の上で鳩たちは相変わらず絡み合っていたが、線路を通して伝わってきた地響きに気が付くと二羽は並んでホームの切れ間、空の光溢れるトンネルの出口に眩しそうな視線を送った。