人魚は言葉と言葉の間の海に棲んでいる。彼がシュルレアリストならその言葉の形を壊して「私」の意識を眠らせて彼女の尾鰭の先を掴もうとするだろう。しかし谷崎はその方法を取らなかった。あくまでも彼は伝統的な手法を固守し「私」の意識を保持したままその暗い海の中へと潜りそこで彼の細密な言葉の網を縦横に広げて神秘の人魚を生け捕ろうとした。決して眠ることが出来ず、決して酔うことの出来ない、つまり絶対に壊れることのない観念世界の世界の住人「私」にはもうその方法しかないのだ。シュルレアリスムはあらかじめ谷崎には不可能であった(三島もヴァレリーヴェイユもそうだろう)。シュルレアリスムという方法が可能なのは眠り、酔うことの出来る、彼自身の中に生きた人魚が棲んでいる人間だけなのである。言い換えるなら「私」の意識と肉体が渾然一体と一つに繋がっている人間である。鏡を見てもそこに人魚の姿、面影を見ることの少しも出来ない意識と肉体が分断された完全に人工的で観念世界の住人、砂漠に住む「私」はあくまでもその持てる唯一の道具言葉で神秘の人魚へと近付くしかない(象徴主義)。良い夢であれ悪い夢であれ太陽(純然たる認識者)は夢を見ることが出来ないのである。
 フランスの詩人アルチュール・ランボーは詩を捨てて砂漠へ旅立った。詩、彼の中の他者、人魚の歌はもう他の何処にもなく、からからに渇き切ったこの世界で最も詩の海から遠く離れたその焦熱地獄の上にきらめく青い空、シェルタリングスカイ、極地の空からしか聞こえて来ないということをきっと彼は知ったのだ。或いは北の果ての岬。どちらにしても人魚、「私」の肉体はもうこの地上の彼方にしか棲息していない。私の生もそこにしかないのだ。

 海は恐ろしい。たとえその深奥の秘密の中へ潜らなくてもたたずっと見詰めているというだけで混沌と無限に形を変えていくその波は見る者、彼の「私」をその深淵の青いはらわたの中へと丸ごと飲み込んでしまう。絶えず「海」と叫んでいなくてはいられない不安。しかしうねり踊り狂う波の形の千変万化は嘲笑う魔女のように如何なる言葉の網をもすり抜けてひたひたと彼の「私」を浸食してしまう。近付かないのが一番なのだ、海には。しかし気が付くと人は海を見ている。まるで吸い寄せられる磁石のように彼の「私」を喰らう人魚の瞳を見ている。私の街には海もなく人魚も居ないから私はいつも空を見ている。青い。青い。青い。咲き乱れた青い薔薇、不可能の天蓋。そう、不可能なのだ、青は。しかしそれはかつて可能だった不可能なのである。人間は皆、言葉や概念を使うからその観念の砂漠で赤く錆び付いた息を吐き暮らしている。しかしそのまるで何もなく乾燥し果てたその砂漠は遥かいにしえに青い海だったのである。そう、かつて人は皆人魚だったのだ。海は恐ろしい。しかし私の中の人魚がその喪われた海を求めて歌う。胸が苦しくなるような悲しくも美しいその歌声が抗い難く私をあの魅惑的な青い海へと引き寄せる。

谷崎潤一郎「人魚の嘆き」Ⅱ

 神秘の海はまた同時に死の海である。人魚と出会うには酸素ボンベ無しの素潜り、裸でその冷たい海に潜らなくてはならない。生半可な体力では人魚に会うどころか途中で力尽き鮫や蛸の餌食、最終的に藻の絡まる海底の骸骨となるだけである。数えることの出来ない美への生け贄たち。しかし谷崎はそうならなかった。誰よりも深く海へと潜りながらいつも彼は帰ってきてその海中で垣間見た人魚の姿を陸の人々に伝えた。それを可能にしたのは残された彼のあの頑健偉容な写真の容姿からも想像出来る谷崎彼自身の持つ生の力、満ち溢れるエロスの力である。まるで世界の終焉のように海へと沈みながらしかし翌日には何事も無かったかの如く絶対に昇ってくる太陽。しかし一方でその強壮なエロス、決して砕けない認識への意志、その強固さそれ自体が彼の存在をあの神秘の青い海、美しい人魚から遥か遠くに隔てているのだ。海への尽きせぬ憧憬、神秘、美への果てしない渇望、芸術家の創作創造に対する原動力、衝動はその不可能な距離によって生まれる。つまり芸術家という生き物は本来あの太陽のようにその存在が最も死(海)からかけ離れた存在なのである。言い換えるなら決して眠ることの出来ない一人の人間。この「人魚の嘆き」の主人公、幼くしてその両親から巨万の富を受け継ぎ豪奢な放蕩に明け暮れながらしかしもはや如何なる遊戯にも慶事にも酔う(眠る)ことが出来ず生そのものに膿んでしまったこの貴公子と呼ばれている青年には谷崎彼作者自身の砂漠が投影されているのだろう。ぎらぎらと容赦ない太陽(認識の力)の火炎に乾燥し果て如何なる蜃気楼の幻も消え去ったその焦熱地獄に恩寵の優しい雨を降らせ観念のミイラの危機に陥った彼を生き返らせてくれる、それこそあの人魚の青いまなざしだったのだ。

谷崎潤一郎「人魚の嘆き」

 小ぶりながらもぎっしりと重たい宝石箱のようにこの物語には作者の尽きせぬ神秘への憧れが詰め込まれている。神秘は人魚の形をしている。谷崎はサファイアラピスラズリやエメラルド、彼の持ち得る限りの言葉の宝石を豪奢に放出してそのめくるめく海の幻獣、美しくも妖しい人魚のオブジェを造り上げた。しかしそこに人がオブジェという言葉から心に思い描きがちな死物の冷たさはない。艶めかしいその息遣いが言葉と言葉の間から泡となって漂ってくるようである。そう、このオブジェは優れた芸術作品が皆そうであるように凍りながら生きているのだ。夢中の少年が川で魚を生け捕りにするようにこの作者は人魚を生け捕りにした。

その瞳は、ガラス張りの器に盛られた清冽な水を透して、あたかも燐のように青く大きく輝いています。どうかすると、眼球全体が、水中に水の凝固した結晶体かと疑われるほど、淡藍色に澄み切っていながら、底の方には甘い涼しい潤いを含んで、深い深い魂の奥から、絶えず「永遠」を視詰めているような、崇厳な光を潜ませています。其処には人間のいかなる瞳よりも、幽玄にして杳遠な暈影が漂い、朗麗にして哀切な曜映がきらめいています。

               ーー谷崎潤一郎「人魚の嘆き」よりーー

 

異形の怪獣

 

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 幼い頃私は怪獣が好きな子供でバルタン星人やレッドキング彼らがウルトラマンに撃退される度に悲しい思いをしていた子供だった。その怪獣崇拝思想は今でも色濃くと残っていて私はこの社会世界に於いて支配的でノーマルな形の人や物よりもそのいわゆる普通の枠からはみ出してしまう異形な人や物の方を愛している。異形、普通一般に考えられているその形とは明らかに異なる形。怪獣を怪獣たらしめているものこそ実はその異形であって、だから人が怪獣を見るときは否が応でもその形というものを意識して見ることになる。それは形が異なるということを意識するだけではなくてその異形を通して形ということそのものを意識するということである。人間は繰り返される日常によってそのただ形を見るということを意識から奪い取られている。たとえば毎日顔を突き合わせている相手の顔の形は毎日見ているそのことによってかえってわからなくなる。その意識滞在時間が長くなるほど相手(人や物)と私との間に生まれる関係、意味内容の方へと意識が向かい、相手の形そのものはその観念(意味)のフィルターに覆われ埋没してしまうのだ(形の遭難)。繰り返される日常はそうして彼からあらゆるもの形を奪い、まるで新幹線に乗っているかのように窓から風景は高速に過ぎ去って、形の世界、物そのものの世界、つまりは現実そのものを認識する彼の「生」が彼の意識からごっそりと抜け落ちてしまう。目まぐるしい夢のような人生が出来上がる。しかし実際に形、物そのものを見ることのなくなった人間は夢、観念の世界の中で生きているのだ。怪獣はそんな共同幻想の罠に嵌まり込んだ彼を形、物そのものの世界、現実の「生」へと立ち戻らせてくれる。それは神秘の世界から差し伸べられた力強い手なのだ。

 極度に人工的な世界の住人、観念の人間は肉体の認識力が乏しく或いはまるで欠落していて、つまりその存在は著しく形を欠いている。透明な幽霊そのものである彼はだから形に対する強烈な憧れを抱き、またその形を実際に持つ者に対する欲望も激しく(肉欲)、だから見る者に歴然と形を意識させ、街を簡単に破壊するほど激しく生命であり同時に頑強に形そのものである異形の怪獣は彼ら形ない観念世界の住人「私」にとって野蛮でありまた高貴な決してその手の届かぬ太陽のような燦々と眩しく輝く存在なのだ。あの文豪谷崎潤一郎もかの如き異形の怪獣に魅せられた人間の一人だと言って良いだろう。しかし彼、谷崎にとっての怪獣は美しく逞しく妖艶な女の肉体そのものだった。彼の作品はその平伏し熱烈に信仰する女の形に対する讃美歌で華やいでいる。だか真実、芸術家とは皆そのような人種なのではないのか。絵画なら線や色、音楽なら音の響きやリズムと、形への憧れとその探求を離れて芸術は存在し得ない。言い換えるなら形を探求することによって物そのものの世界、語り得ぬ神へと達しようという意志、それが芸術である。そういう意味で言葉の芸術である小説というものはその使用する道具乃至武器がそもそも形のない言葉、観念であるからそれはいつも形の危機、つまり非芸術(哲学や批評)に変質してしまう危険を秘めている。ひとたび内容や意味の探求へとその意図が移ってしまったらそれはこの繰り返される日常によって彼を閉じ込めている観念世界、無味乾燥な夢の延長に過ぎなくなるのだ。芸術家が探求すべきはそうではない、日常から零れ落ちていく物そのものの形の世界である。そもそも物語とはその言葉の通りに物(語り得ぬもの)を語ることなのだ。谷崎はその物語の大家であって彼はただひたすら脇目も振らず女の形を言葉によって探求し続け(三島は彼を表面へのダイバーと称した)小説を芸術(怪獣)に押し上げることに貢献した芸術家の一人である。その谷崎の物語の一つ「人魚の嘆き」を私は最近読んだ。

 エロス、生への意志は生きている者誰もが持っている。だから人が敢えてそれをエロスと言葉にして言うときそれはエロスの過剰なのだ。生命、あらゆる生命は燃えいる。その炎を殊更炎と言うときそれは炎の過剰なのだ。そしてその過剰は反エロス、タナトス、死物の世界との接近によって形成される。梶井基次郎の「桜の樹の下には屍体が埋まっている」は有名だがエロスの下にはタナトスが埋まってる、太陽は暗黒の真空を吸収して燃えて過剰なのだ。だからエロティックなもの、花は生の意志の体現であり同時に死の意志の反映、エロスとタナトス、炎の太陽と蒼い石の月のと間に生まれた子供なのだと言える。雪の結晶はその最も純粋で原始的な花の一つである。透明で形なく死(物の世界)に近いものほど必然的にエロティックで美しく、しかし同時にそれは死(物の世界)の意志の反映である。奇跡みたいじゃないか。死、何も認識しない純粋な物があの美しい花々を意志している。死もまたその死(物の世界の終わり)によって花を咲かせ、生の意志を反映しているのである。色の究極には空があり空の究極には色がある。くるくるとやはり回っている。宇宙全体がエンドレス・ワルツを踊っている。