異形の怪獣

 

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 幼い頃私は怪獣が好きな子供でバルタン星人やレッドキング彼らがウルトラマンに撃退される度に悲しい思いをしていた子供だった。その怪獣崇拝思想は今でも色濃くと残っていて私はこの社会世界に於いて支配的でノーマルな形の人や物よりもそのいわゆる普通の枠からはみ出してしまう異形な人や物の方を愛している。異形、普通一般に考えられているその形とは明らかに異なる形。怪獣を怪獣たらしめているものこそ実はその異形であって、だから人が怪獣を見るときは否が応でもその形というものを意識して見ることになる。それは形が異なるということを意識するだけではなくてその異形を通して形ということそのものを意識するということである。人間は繰り返される日常によってそのただ形を見るということを意識から奪い取られている。たとえば毎日顔を突き合わせている相手の顔の形は毎日見ているそのことによってかえってわからなくなる。その意識滞在時間が長くなるほど相手(人や物)と私との間に生まれる関係、意味内容の方へと意識が向かい、相手の形そのものはその観念(意味)のフィルターに覆われ埋没してしまうのだ(形の遭難)。繰り返される日常はそうして彼からあらゆるもの形を奪い、まるで新幹線に乗っているかのように窓から風景は高速に過ぎ去って、形の世界、物そのものの世界、つまりは現実そのものを認識する彼の「生」が彼の意識からごっそりと抜け落ちてしまう。目まぐるしい夢のような人生が出来上がる。しかし実際に形、物そのものを見ることのなくなった人間は夢、観念の世界の中で生きているのだ。怪獣はそんな共同幻想の罠に嵌まり込んだ彼を形、物そのものの世界、現実の「生」へと立ち戻らせてくれる。それは神秘の世界から差し伸べられた力強い手なのだ。

 極度に人工的な世界の住人、観念の人間は肉体の認識力が乏しく或いはまるで欠落していて、つまりその存在は著しく形を欠いている。透明な幽霊そのものである彼はだから形に対する強烈な憧れを抱き、またその形を実際に持つ者に対する欲望も激しく(肉欲)、だから見る者に歴然と形を意識させ、街を簡単に破壊するほど激しく生命であり同時に頑強に形そのものである異形の怪獣は彼ら形ない観念世界の住人「私」にとって野蛮でありまた高貴な決してその手の届かぬ太陽のような燦々と眩しく輝く存在なのだ。あの文豪谷崎潤一郎もかの如き異形の怪獣に魅せられた人間の一人だと言って良いだろう。しかし彼、谷崎にとっての怪獣は美しく逞しく妖艶な女の肉体そのものだった。彼の作品はその平伏し熱烈に信仰する女の形に対する讃美歌で華やいでいる。だか真実、芸術家とは皆そのような人種なのではないのか。絵画なら線や色、音楽なら音の響きやリズムと、形への憧れとその探求を離れて芸術は存在し得ない。言い換えるなら形を探求することによって物そのものの世界、語り得ぬ神へと達しようという意志、それが芸術である。そういう意味で言葉の芸術である小説というものはその使用する道具乃至武器がそもそも形のない言葉、観念であるからそれはいつも形の危機、つまり非芸術(哲学や批評)に変質してしまう危険を秘めている。ひとたび内容や意味の探求へとその意図が移ってしまったらそれはこの繰り返される日常によって彼を閉じ込めている観念世界、無味乾燥な夢の延長に過ぎなくなるのだ。芸術家が探求すべきはそうではない、日常から零れ落ちていく物そのものの形の世界である。そもそも物語とはその言葉の通りに物(語り得ぬもの)を語ることなのだ。谷崎はその物語の大家であって彼はただひたすら脇目も振らず女の形を言葉によって探求し続け(三島は彼を表面へのダイバーと称した)小説を芸術(怪獣)に押し上げることに貢献した芸術家の一人である。その谷崎の物語の一つ「人魚の嘆き」を私は最近読んだ。