現実感の罠

 意識の滞在する時間、その量に応じてその対象に感じる現実感は強くもなりまた弱くもなる。そのものと触れ合い、そのもののことを思い続けることによってそのものの現実感が増し、そのものが彼にとって重要なものとなる。しかしそこには危険な罠が潜んでいる。

 たとえばとあるA君が私の悪口を言ったする。すると当然私の心は傷つき、「何故A君はあんなことを言ってきたのだろう?」「明日もA君は私を傷つけるのだろうか?」などと学校や食名から家へと帰り、A君と物理的に離れてから後も私はA君と彼に関係することをあれやこれやと思い患い始める。つまりA君に対する私の意識の滞在時間がぐっと激増するわけだ。するとそれまでさして気に留める存在ではなかったA君という一人の存在に対して私が感じる現実感も強くなり、つまりA君が私にとって極めて重要な人物となっていく。すると私のなかで現実感を増したA君という存在その言葉自体も同時に彼自身と同様現実感を増し、その影響力を増した言葉によってまた深く私の心は傷つき、するとまた更に私はA君のことを考えざるを得なくなり、当然またA君に対する私の意識の滞在時間は長くなる。こうして傷付けられ、意識の滞在時間を増やし、また更に深く傷付けられ‥‥という負のループを繰り返していくうちに、ついに私にとってA君がほとんど現実そのものの存在へと昇格してしまい、私の意識のなかで王様然と君臨するそんなA君に私という人間はほぼ完全に支配されるようになる。しかしそう気が付いたときにはもう既にほとんど手遅れで、私はA君の一挙手一投足にただ迅速と反応するだけの奴隷、ロボット、A君という存在の一部に成り下がっており、自分自身の判断能力も喪失し、私はA君に苦しめられ彼を憎みながら、しかしA君は私にとって小さくなった私自身よりも遥かに大きく力強い現実そのものになっているからどうしても彼に意識が依存してしまい離れることができない、抜け出すことが困難な泥沼に私ははまり込んでしまっている。恐ろしい。しかしその泥沼は特にA君独自の罠というわけではない。この世界にはひとりの人間を奴隷状態へと落とし込むそのように危険な意識の滞在時間=現実感という泥沼の罠があそこにもそこにも数えきれないほど仕掛けられているのだ。