ゴッホが弟テオにその発見を語った真の宗教「自らが花のように生きた日本人」言い換えるならそれは「私」自らが美しい形、花や人魚(艶やかな着物は花と人と魚の融合を思わせる)になろうという思想を生きた人々である。それはまた同時にゴッホ、彼が篤く信仰した純粋な本来のキリスト教であり、自らが永遠の形、十字架(認識と物が一つに溶け合った物)となることで人(認識の世界)と神(物の世界)ととの懸け橋となったイエスの面影(ゴッホはイエスを人類最初の芸術家と呼んだ)を浮世絵を通してかつての日本人たちに彼は見ていたのだろう。自然、生命本来の態度(純然たる形への意志)であるその姿に立ち返るため、画架や絵具箱を抱えて彼は黄金の小麦畑へ燦燦と旅立っていった。しかしそれはひどく危険なことなのだ。ひまわりを描く人間がそのひまわりになったとき、ひまわりを描く「私」は消滅してしまうのだから。一方、谷崎、彼は人魚を捕獲し人魚を描こうとしたが自らが人魚になろうとは決してしなかった。だからゴッホは死に谷崎は生きた。

 

若さというもの

 若さとは形への意志、その強さであって言い換えるなら「私」が何者でもない(形がない)ことの深く痛切な自覚である。だから人はその形を手に入れたと「私」が何者かになったと自覚ないし誤解したときからその若さを失う。要するに老い始める。小林秀雄が老いてなお美しい樹というものについて語っていたが樹は老いることがないのだ。樹、彼は生きている限りその枝や幹を伸ばし続け、つまり成長している。その若々しい緑の葉を次々と手のように広げて何かを掴もうとしている。また春になると絢爛と花々を咲かせて何者かになろうとしている。彼は樹は永遠に認識しようとし形への意志を決して止めない。それは彼がその遥か頭上に輝いている不可能、太陽(花)と青い空(葉々)を追いかけているからだ。彼は彼がその太陽と青い空、本当の彼自身になるまで成長することをやめないのである。だから樹は老いない。永遠に若い。ソクラテス無知の知を発見した。それは「私」が何者でもないことを知ることである。そのソクラテスは死刑を目前とした獄中で琴の練習をしていた。七十歳で死んだ彼もまた永遠に若く青い樹だったのだ。

枯れた野に

寂しい鴉が一羽居て

捨て鉢に冷えた土を掘っている

虫を探しているのか

それとも違うものを探しているのか

わからない

ただ乏しい光のなかで

影を喪った俺の影のようなお前が

虚しい土塊を放るたび

膿みきった白い冬の空に

黒い花火が打ち上がる

 

氷の下のマーメイド

白い靄のような
鏡の曇りが晴れて
淡い月光の射す
仄か暗い浴室を背に
裸の少女が立っている
肩まで伸びた黒髪は
浜辺の海草のように濡れて
古い写真の中の人間のように
まるで微動だにせず
長い睫毛の下の円い瞳は
遥か彼方を見つめている
氷の下のマーメイド
まだあどけない唇は
真夜中のオキザリスのように
固く沈黙に閉ざされて
繊細な顎の先から垂れた雫が
折れそうな首の表面を流れて
痛ましく尖った鎖骨の谷を通り
平らな胸の肌の上に溶けていく
何も見ず何も聞かず何も感じず
まるで遺棄された人形のように
熱帯魚も居ないイルカも居ない
凍えるような真空の海を
君は永遠にさまよい続けている

白い鳥の群れが
北の岬へと飛んでいく
梅の木の黒い枝先に
真っ白な雪の花が咲く
虚しい骸骨と化していく人々
氷の下のマーメイド
全部、君のせいだ
夥しい生け贄たちの血を吸って
しかし微かにも穢れずに
太陽の烈火が燃え尽きて
地獄の季節が終わっても
相変わらず深く眠り続ける君の
冬の澄んだ夜空に震える星々のような
きらきらと悲しい歌声が
あらゆる生命、存在を君の住む場所
清らかな沈黙の世界へと引き寄せるんだ

 三島由紀夫の「仮面の告白」には強烈なインパクトで記憶に残る印象的な場面が少なくはないが、なかでも今特に思い出すのは主人公が子供の頃、クレオパトラに扮装し家族の者を絶句させるところである。極度に人工的な人間、形のない幽霊のような、つまり観念的精神的な人間ほどそのような誘惑に駆られるのではないか?何故なら女性の衣装や化粧の形の美は只今即席的に出来上がったものではなくその民族なり集団が悠久の年月をかけて追及してきた、植物たちにとっての花というものと同じように重厚な蓄積の上に成り立っているのであり、どんなに頑丈堅固な信仰の巨塔よりも盤石な受け継がれてきた今息をしている美の形、そんなものがまるで形のない「私」の瞳にとって眩しく魅力的に映らないほうが不思議だからである。ただそのきらきらとした衣装を身に纏い艶やかな化粧を顔に施すだけで「私」念願の形が手に入るのだ。女の子はその形に恋をしてその形を身に付ける。男の子はその形を身に付けた女の子に恋をする。ならば直接、形に恋をする男の子が存在しても不思議ではない。つまり自分自身が美しいクレオパトラになりたいと願う男の子が居ても何らおかしくはないのだ。