アンナ・カヴァンの「氷」

 襲来してくる物(死)の意志と「私」の戦いということを考えるとき、私は少し以前に読んだアンナ・カヴァンの小説「氷」を思い出さずにはいられない。世界の何処へ逃げても追い掛けてきて冷酷に容赦なく人々を凍らせてしまう「氷」。主人公の「私」はその絶望的な氷の脅威から逃れつつ彼自身の分身のような少女の影を追い掛けて世界中を旅する。登場人物の名前、国や街の名称、固有名詞は一切登場せず物語は静謐な異邦人のモノクローム的な空気に包まれて進行しだからこそ音もなくしかし着実に恐ろしい速度で迫ってくる「氷」に対する絶大な不安感が読む側にもひしひしと浸透してくる(これと似たスタイルとして私はマルグリット・デュラスの「モデラート・カンタービレ」を思い出す)。その「氷」。しかし作中ではその「氷」が一体何なのか語られることはない。「氷」は「氷」人々を「私」を凍らせて死に至らしめる「氷」である。その「氷」が私には物(死)の意志(タナトス)そのものに感じられてならない。そもそも物の意志というのが人を始めとしたあらゆる生物からその生の熱を奪い去りそれを固く凍った命無き物へと変えてしまうものなのだからそれを「氷」の意志と言い換えても何らおかしくはないものなのだ。とはいえ「氷」も「物」もその実態が何なのかはわからない。ただそれに包まれたものは例外なく凍り付き冷たい死物と化してしまう。
 ところでこの「氷」の主人公「私」が追っている少女という存在は全くの無力で大人の男たちから完全に支配され彼らの欲望や意志のままに虐待され隷属するだけのまるで人形のような少女である。そう、人形なのだ。彼女は本物の「氷」の脅威以前に大人の男たちの「氷」によって凍らされて彼らの物になってしまっている。「私」はというとそんな囚われの少女を助けだしたい「氷」から解放したいと願い行動する一方でその彼女に対して非常にサディスティックな願望を抱いている。まるでその願望を投影するかのように少女の身に訪れる残酷な死の幻影を「私」は幾たびとなく目撃する。つまり「私」も他の男たちと同じようにいやもっと進んで(自分の分身のような)少女を殺して完全な人形、物にしてしまいたい人間なのだ。言い換えるならそれは「私」が力ある大人の男に「氷」の力を持った存在になりたいという願望、意志である。更にはそのあらゆるものを凍らせ支配し彼の物とする「氷」の力を特別に秀でて持った超人的人物として「長官」という人物が登場する。魔術的な青い瞳を持った彼はその卓越した政治手腕とその身に纏う不思議な魅力カリスマ性によって周りの人間を忽ち支配し、「私」も当初は少女を取り戻すための宿敵であったはずの「長官」その魅力にいつの間にか抗うことが出来ず惹かれ始める。そして面白いことに始めはただのか弱い旅行者然としていた「私」が物語が進むにつれてその機知や肉体の力で困難や脅威を切り抜けていくヴァイタリティ溢れる「氷」の力を持った大人の男「長官」と化していくのである。つまり「私」が段々と人々を凍らせる側に人形である少女とは対局にある存在へと成長していく。だからこの小説を形のない「私」が形を獲得していく、一人の人間の成長を描いた作品だとする見方も可能だろう。
 「氷」に覆われた終末的な世界を少女の幻影に苛まれながら漂泊する「私」。その静かな絶望に包まれた流れる「氷」の世界の風景は私の好きなアンドリュー・ワイエスの一連の絵画を思い浮かばせた。そのどれもが荒涼とした自然と孤独と寒さに輝いて北を感じさせるワイエスの絵はまさしく「氷」の世界だった。しかしそれは完全な「氷」「物(死)」の世界ではない。人間が認識者がぎりぎりに肉迫可能な「氷」の世界である。カヴァンは物語によっておそらくは彼女自身を襲っていたその「氷」の世界を描こうとした。暗鬱ながらも透き通りきらきらと眩しい寒さ。これは氷山に臨む北の果てに一輪咲いてしまった凍れる花の告白なのだ。