宿命論

 煙草を買う為に家から歩いて近所のコンビニへと行く。十分少々のその時間の内に私は道で十匹を超える蝉の死骸を目にした。空へと両手両足を伸ばしたまま枯死している彼、滅茶苦茶に踏み潰されてコンクリートの地面と殆ど一体化している彼。もう既に八月も後半だ。もう既に数え切れないほど夥しい数の彼の死を私はボロボロのスニーカーを履いて通り抜けて来た。これ程までに死というものが強制的に意識の中に入ってくる季節は夏を置いて他に無い。しかしこれ程までに生というものが眩しく輝いている季節もまた夏を置いて他に無い。誰のせいだ?太陽のせいだ。太陽のくちづけが生と死のコントラストを大地の上に色濃く焼き付けているのだ。
 宗教家や道徳家、或いは精神科医脳科学者はこんな夏という状態を否定するのだろう。例えば、命を燃やして鳴き続ける蝉に対して宗教家は「鳴く事に囚われてはいけません。それは煩悩です。それは地獄です。」などと言うだろう。道徳家ならば顔を醜くしかめて「鳴く事自体は悪ではありません。しかし鳴き過ぎる事は悪です。自分を律しなければなりません」と言うだろうし、精神科医の先生ならば「貴方は強迫症ですね。鳴くという行為に依存しているのです。それに対する最も的確な療法は」と始まるだろうし、脳科学者ならば「それは脳内物質のバランスの乱れです。」などと説明するだろう。蝉たちは幸福だ。蝉たちはこんな奴等を相手にしなくて済むのだから。
 彼等は一見すると各々別な事を言っているように見える。しかし彼等が目指している人間の状態は共通して一つだ。それは幸福である。人間の幸福、それはつまり心や精神の平安と安寧である。憤怒や苦悩、あらゆる感情や欲望に縛られる事の無い自由な境地を彼等は目指しているのだ。感情や欲望はあっても良い。しかしそれらはコントロールされなくてはならない。蝉は鳴いても良い。しかし鳴く事に心を縛られている状態は苦しいものだ。煩悩の状態だ。地獄の境涯だ。鳴く事はコントロールされねばならない。鳴く事は息抜きなのだ。日常だけでは疲弊してしまう。だから鳴く事は必要である。鳴く事はレジャーだ。鳴く事はストレス発散だ。日常の平安と安寧を維持していく為にそれは必要なものだろう。だから適度に鳴けば良い。しかし間違っても鳴く事が生きる事などと考えてはいけない。鳴く事を目標にしてはいけない。それは悪だ。それは地獄だ。それは死を齎す。過剰は死を齎す。だから夏は忌むべき季節だ。あの禍々しい太陽は覆い隠さなければならない。我々が目指すべきは冬に輝く太陽だ。あの永遠の光だけを目指さなければならない。言葉によって全てを支配しなければならない。それが人間だ。それが神に至る道だ。それがヒューマニズムだ。言い換えれば人形主義だ。家畜の幸福論だ。
 確かに。蝉たちは苦しいだろう。自分の生命を燃やしているのだ。苦しくない筈が無い。ライターの火に少し触れるだけでも指は耐え難い苦痛に包まれる。蝉たちは生命を燃やしているのだ。それは想像を絶する苦痛だ。今もほら、生命が真っ赤な炎に燃える、その爆音が私の部屋の壁を突き破って私の耳に聞こえる。炎が炎に飛び火する。私は胸が苦しい。私の生命までもが燃え始めてしまった。だから苦しい。だからこの文章を書いている。書きたくて書いている訳じゃない。書かざる負えないのだ。蝉たちも同じだ。彼等は鳴きたいから鳴いているのではない。蝉たちは鳴かざる負えないのだ。彼等に選択の余地など無い。蝉たちは鳴く事に縛られている。完全に奴隷だ。鳴く事は蝉の宿命なのだ。彼等は己自身の宿命を生きている。
 宿命。それは避ける事の出来ないものである。宿命。命が宿ると書く。つまり生きているものという事である。生きるとは避ける事の出来ないものを背負うという事なのだ。蝉が死ぬまで鳴き続ける事なのだ。宗教家や道徳家たちはその宿命からの解放を訴える。彼等が目指すのは石だ。もはや何事にも左右されない不動の石だ。古来、人類は石に憧れを抱いてきた。石の平安を求めて来たのだ。しかしそれは死だ。死物だ。生命として誕生しながらなぜ石にならなければならない?死体として生きる事に何の価値がある?死体になるのは死んでからで良い。生きている以上は生きなければならない。生きるという事は生命を燃やす事だ。蝉の様に鳴き続ける事だ。太陽は今も燃えている。太陽は今も赤い血を流している。その生命の輝きによって我々は存在している。太陽は生命そのものだ。太陽は宿命そのものだ。太陽の子である我らは皆宿命の子である。でありながら太陽と対極にある石を目指すとは何たる大罪だろう。太陽に習わなければならない。太陽のように自分の生命を爆発させねばならない。蝉のように死ぬ迄歌い続けなければならない。苦しまなければならない。もし苦しんでいる人がいるならばその人は燃えているのだ。その人は輝いているのだ。ただその生命の目くるめく輝きを自分では見る事が出来ない。自分では感じる事が出来ない。そんな余裕は彼に無いのだ。蝉にそんな余裕は無いのだ。本当に生きている者は生きているという事を実感出来ないのだ。エリ・エリ・レマ・サバクタニ。「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」十字架の上でイエスはそう叫んだ。苦悩と苦痛の頂上でそう叫んだ。もはやこの瞬間イエスは己の生命を燃やす炎のそのものになってしまった。炎である彼に炎は見えなくなってしまった。完全な存在となったイエスに完全な存在の姿は見えなくなってしまった。しかしその炎が焼き付いた十字架の輝きはその後何千年にも渡って人々を照らし続けたのだ。エリ・エリ・レマ・サバクタニエリ・エリ・レマ・サバクタニ。蝉たちの鳴き声がその言葉に聞こえる。その絶唱と絶叫が薄暗い私の部屋を照らし出している。
 彼はそうせざる負えなかった。たとえその結果に破滅の崖が待っている事が分かっていても彼はそこへと歩いて行かざる負えなかった。抗い難い感情。抗い難い欲望。それが彼の宿命だからだ。同時にそれは悲劇だ。古来からそんな悲劇、悲劇の物語が人類の心を奪い続けてきたのは生産とその安定を第一とする社会の中で半ば石と化してしまった人々が自分に失われてしまった生命の輝きを見たいと願った結果なのである。彼等は燃える生命を見たかった。太陽そのものを見たかった。美しさとはすべて太陽の熱なのである。石は確かに綺麗だ。だが、美しさはない。死物に美しさはない。美しさは生命だけが持っている。燃えているものだけが美しい。蝉の絶唱、これ程美しい悲劇はない。これ程純粋な炎は無い。私は太陽の悲劇そのものを聞いている。
 とはいえ平穏と安寧は必要である。石になる時期は必要である。蝉が長い年月暗い土中に閉じ籠っていたように。しかしそれは目的ではない。反対である。あの暗く長い土中生活はこの一瞬の夏をより爆発的に輝かせる為の引き絞られたばねのようなものなのだ。生活の為に祭りがあるのではない。祭りの為に生活があるのだ。夜の為に太陽があるのではない。太陽が輝く為に夜があるのだ。我々は太陽の子だ。我々は輝くために生まれてきた。我々は燃える為に生まれてきた。その為に長い夜がある。その為に黒い死がある。
 私は本を読んで知識を深める。しかしそれはそんな知識をぶち壊す為である。言葉を重ねる。それは言葉を破壊し尽くす為である。言葉は美しくない。言葉は生命ではない。死んでいく言葉だけが美しい。死んでいく言葉だけが生きている。私の心を動かす言葉はもはや言葉ではない。それはやはり生命だ。炎だ。太陽だ。芸術行為とは太陽をその限られた小さな枠にぎゅうぎゅうと圧縮する事である。その枠から爆発して溢れ出す高められた太陽の熱と輝きが観る者の心を抗い難く焼き滅ぼすのだ。宿命が彼に乗り移るのだ。死を越えて時を越えて生命が生命に伝播していくのだ。

私の黒い人形

 純粋な人間ほど社会の色に染まりやすい。彼等はその純粋さ故に素朴に素直に何の疑いも無く社会を信用し、いつの間にか社会そのものになっている。真っ白ほど汚れ易いものはないのだ。彼が人間であればあるほど彼を人形にするのは易しくなる。既に別な色に染まっている人間を他の色に染めたり、既に人形として殆ど完成されている人間を別種の人形に造り上げる事は難しい。とにかく純粋なものはすぐに汚れる。純粋は決して長くは生存出来ない。つまりは不純になったものだけが生き残る。もし死によって汚濁が純粋に回帰循環されなかったとしたらこの世界はとんでもなく醜悪なものになっているだろう。もう既になり始めているのだが、それは置いておく事にしよう。
 私は今年で三十三歳になった。もう既に若くはない。私は二十代で死ななかった。つまり私は純粋では無かったのだ。本当に純粋ならばきっと二十代で死んでいた筈である。いや、死んだのだ。純粋な私は死んだ。二十代、更にはもっと前に死んだのだ。既に私は死んでしまった。だから今私はこうして息をしている。ではこの私は誰なのだ?この汚濁に塗れた一人の男は誰なのだ?それは純粋な私の死体である。死体でありながら私は存在しているのだ。言い換えれば死体であるからこそ私は生存出来ている。
 いや、そうではない。私は最初から純粋なんかでは無かった。生まれた瞬間からどす黒く染まっていた。私は生まれつきの人形なのだ。人間ではない。人形としてこの世に誕生したのだ。真っ黒な墨に塗りつぶされた人形。それがそもそもの私であり、その私は今もここで旺盛に呼吸をしている。社会は私を他の色に塗り替えようとした。社会は私を他の人形へと造り替えようとした。しかしそれらは全て徒労に終わった。なぜなら私は真っ黒な墨に塗りつぶされた人形だからである。これを新しく綺麗な人形にする事は不可能である。一度破壊してしまう他あるまい。つまりは私を殺すほか私を変える方法は無いのである。私はそんな社会の思惑を敏感に察知した。真っ黒な墨に塗り潰された人形、つまりは本当の私自身を他人には見えないように胸の奥底へと仕舞い込んだ。だから今まで生きてくる事が出来たのだ。
 私は人形を人形で包み込んだ。しかし段々と外側の人形が、つまりは社会が求める見栄えの良い人形が年齢とともに崩れ始めた。すると当然内側の黒い人形が姿を現し始める。私が詩や小説、あらゆる文章を書き始めたのはこの為である。私の中の黒い人形が歌い出したのだ。蝉が暗い土中の中で何年も無為に過ごすのはただ一つこの夏に鳴いて滅ぶが為である。私の無為な三十三年もただこの夏に歌い滅ぶ、ただそれだけの為に存在したのだ。黒い人形は地上に出て来てしまった。もう二度とそれは暗い土中に戻る事は出来ない。私は言葉を吐き続ける。それが黒い人形の歌なのだ。正しいとか間違っているとかそんな事はどうでも良い。蝉は鳴き続ける。ただ死ぬ迄鳴き続ける事が彼の持つ唯一の正義であり誠実なのだ。芸術家の岡本太郎ならばそれを爆発と呼んだであろう。私の黒い人形は爆発してしまった。私の黒い太陽はとうとうついに爆発してしまった。

私の知らない海

 風が吹き荒れている。近所で改装中のビル、その外壁全域を覆い包む灰色のシートが強い風を受けてぱたぱたとまるで港に停泊している巨大な船の帆のようにはためいている。「出航の朝だ」私は呟く。何処へ?私の知らない海へ旅立つのだ。昨日の朝、人差し指の先から飛んで行った緑色の黄金虫の姿が浮かぶ。青い空、目まぐるしい雲の流れ、その中へ幻のように溶けていった小さな影。無事に彼は私の知らない海へと辿り着いただろうか。気が付くと私は空を見上げている。今日も雲たちは目まぐるしい。私の船はまだ港に停泊している。真っ白な帆を烈風にはためかせ、私が乗って来るそのときを待っている。早く乗らなくてはならない。彼の後を追い掛けていかなくてはならない。また強い風が吹いた。私の前髪が翻り、おでこが露わになる。そのおでこに風が当たる。すると一瞬、ほんの一瞬だけ潮の匂いがした。海の匂い。私の知らない海の匂い。私は瞳を閉じた。胸いっぱいにその匂いを吸い込んだ。真っ暗だった視界に段々と青い光が溢れて来る。まるで夜明けを見ているようだった。やがてそれは私の視界全てを覆った。空と海。私は港に立っていた。海の只中へと真っ直ぐに伸びた白ばんだコンクリートの道、その先端に一人立っていた。波が寄せる。遥か真下、音を立ててその波が消波ブロックに白く砕ける。私は裸足だった。青い空には雲一つとして浮かんで無かった。太陽だけがその頂にぽつんと浮かんでいる。とても寂しそうだ。海にはその光が白く賑やかに浮かんでいた。ちらちら、きらきら。私はふと我に返る。船は?額に手を当て辺りを見回す。しかし、船らしき影はその何処にも見当たらない。痕跡、その欠片すらない。私は落胆してその場に座り込んだ。また波が寄せる。遥か真下、音を立ててその波が消波ブロックに白く砕ける。すると私は気が付いた。遥か真下、消波ブロックの上で何かが光っている。赤銅色の輝き。あれは。もしかしたら。しかし遠過ぎて確認は出来ない。「そんな訳はない。あの黄金虫がここに落ちている筈はない」私は自分に言い聞かせる。音を立てて波がまた消波ブロックに白く砕ける。細かい水飛沫が赤銅色の輝き、その周囲に降り掛かる。心臓がきつく締め付けられる。痛い。直ぐにそれは激しい動悸へと変わる。みるみると顔が蒼褪め、手の先が震えだす。危機が押し迫っている。恐ろしい波に彼が飲み込まれてしまう。音を立てて波がまた消波ブロックに白く砕ける。焦眉に顔が醜く歪む。でも本当に?あの赤銅色の輝きは本当に黄金虫?遥か真下にあるそれを確かめる術は一つしかなかった。しかし私は躊躇した。余りにも高い。固そうな消波ブロック。着地に失敗したら死ぬだろう。或いは海に落ちてしまうかもしれない。でも。昨日の朝呑気そうに両手で顔を洗っていた彼の顔が浮かぶ。当たり前のように空の中へ溶けていった彼の小さな背中が浮かぶ。手の中のくすぐったい感触が蘇る。彼は生きていた。まだ生きているかもしれない。とても眩しかった。とても抗う事が出来ない。その眩しい光の中へと私は思いっ切り飛び込んだ。一瞬、私は完全な浮遊感に包まれる。空と海の間に私は存在している。しかしすぐに時間という重力が信じ難い速さで私を石の上に叩き落とす。消波ブロックの上に私は落ちた。強い衝撃が裸の足の裏から下半身に向かって走る。だが無事に着地出来た。衝撃に両脚がまだ震えている。その足元に波が寄せる。大きな音を立ててその波が消波ブロックに白く砕ける。冷たい海の飛沫が私の足の指や膝頭までにも降り掛かる。すぐに私はあの赤銅色の輝きを探し始めた。あった。それは私の足元、その左側の方に落ちていた。しかし。私の顔が奇妙に歪む。それは黄金虫では無かった。銅製の太いボルト、それがその正体だった。私の全身から力が抜けていく。その場にしゃがみ込む。足を投げ出して、尻と両手をついた。笑いが込み上げて来る。心臓の動悸がそのまま笑い声へと変わる。止める事の出来ない殆ど痙攣的と呼べるその笑い。胸が苦しい。私は目に涙を浮かべながら石の上落ちているそのボルトを手に取った。指につまんでそのボルトを目の前にかざす。もうすぐ目の前に横たわっている海、その青さの前で赤銅色の光がきらきらと輝く。笑いは止まらない。私はそのままそのボルトを海に向かって思いっ切り投げ付けた。大した感触も無い。すぐにそれは空だか海だかわからないところへ消えてしまった。幻のようだった。段々と笑いがおさまってくる。私は後ろを振り返った。それは絶壁だった。干乾びたフジツボが張り付いている黒ずんだ絶壁。とても高い。とても登れそうにない。途方に暮れて私はその頂を見詰めた。空が青く眩しい。その空を背後に一人の男が立っている。裸足だ。風が黒い髪を翻し、おでこが露わになっている。痛切な瞳で何かを探している。すぐに彼が何を探しているのか分かった。私は手を振った。手と腕が千切れそうな程手と腕を振った。声は全く出なかった。すると突然強い風が吹き始めた。私は飛ばされそうになる。同時に海の方でとんでもなく大きな波が起こった。海が空を全く覆い隠してしまった。それでも私は彼に向って手と腕を振り続けた。千切れそうになる程降り続けた。「君の知らない海はここにあるよ」心の中でそう叫んだ。すると彼の顔がゆっくりと下を向き始めた。すぐに彼は何かを見付けた。石の上に落ちた私の姿を彼は見付けた。彼の瞳と私の瞳が一つに重なり始める。一つになった。直後。大きな波が私を飲み込んだ。消波ブロックごと私は海に飲み込まれた。あらゆる生命の記憶が私を駆け巡る。あらゆる生命の感情が私を駆け巡る。海は感情と記憶の坩堝だった。海は生命の坩堝だった。そしてそれは瞬く間に飽和した。私はまるで何も見えなくなった。私はまるで何も聞こえなくなった。私は何も感じられなくなった。私は海になった。私は私の知らない海になった。
 やがて波は引いていった。消波ブロックが再びその頭を現す。しかしそこには誰も居なかった。絶壁の上、海の只中へと真っ直ぐに伸びている白ばんだコンクリートの道、そこにも誰も居なかった。何処にも誰もいない。ただ空と海の上に太陽がぽつんと寂しそうに浮かんでいた。

幽体離脱

 既に夜は明けていた。私は駅の改札を潜り抜けていた。朝も夜もない駅の構内。掲示板には先々週に終わった祭りのポスターがまだ貼られている。私が行かなかった祭りのポスターだ。構内には誰も居ない。私は階段を昇り始める。一段、一段、駅のホームへと上がっていく。すると何やら赤銅色に輝いている物体が視界に入った。一段、一段、また私は階段を昇った。顔のすぐ目の前にその赤銅色の輝きがやって来る。それはひっくり返った黄金虫だった。脚が一本欠けている。五本の脚を力無く天井へ向けている。蛍光灯の光がその脚や腹を赤銅色に輝かしているのだ。まるで何かの美しい鉱物だ。私は手を伸ばし、指の先でその黄金虫の腹をつつく。とても硬い感触。しかしその鉱物は生きていた。五本の脚をじたばたと動かし始める。しかしまるで意味がない。全然ひっくり返る事が出来ない。まるで亀だ。まるで私だ。今日も酷い金縛りに遭った。蒲団の上で目覚めた私は全く身体を動かす事が出来なかった。必死に腕を上げ、死に物狂いで頭と上半身を上げようとした。しかしまるで意味がない。全然起き上がる事が出来ない。更に酷い事にこんな事は初めてなのだが、息が出来なかった。まるで水の底に沈められているかのように呼吸が出来ない。苦しい。苦しい。パニックになりながら私は必死に腕を上げ、死に物狂いで頭と上半身を上げようとした。しかしまるで意味がない。水の底から這い上がる事が出来ない。こうやって人は死んでいくんだ。頭の片隅でそんな事を思う。苦しいな。空が無い。太陽が見えない。ここは何処だ?何処で私は死んでいくのだ?ここは駅の階段だ。私はその黄金虫を手に包み込んだ。手の中で彼はじたばたと藻掻いている。手の中がくすぐったい。まあ、待つんだ。今、君は暗闇の中にいるかもしれない。でもすぐにそれは幻のように消える。僕が君を空の下に連れてってあげるよ。だからそんなに暴れるんじゃない。一段、一段、また私は階段を昇っていった。
 私は駅のホームに上がって来た。人間が数人その上に立っている。黄金虫はまだじたばたと手の中で暴れていた。私は線路に向かって歩いていく。白線の内側に辿り着き、手を開く。緑色の黄金虫が朝の光に照らされる。黒く円らな瞳で不思議そうに上を見ている。彼の暗闇は消え去っていた。まるで幻のように消え去っていた。自由の空がそこにある。さあ、飛んでいくんだ黄金虫。朝の空の上には沢山の雲が浮いていた。その雲がまるで早送りのビデオの様に端から端へと流れていく。とても強い風が吹いているようだ。海のようだ。あれは海なのかもしれない。私の知らない海。ならばここはそんな海の深い底なのだろう。息が苦しい。私は水の底に沈められている。私は金縛りにあっている。私は僅かにも浮かび上がる事が出来ない。こうやって人は死んでいくのだろう。頭の片隅でそんな事を思う。苦しいな。空が無い。太陽が見えない。大きな海が私の頭の上を塞いでいる。私の知らない海が私を包んでいる。黄金虫が動き始めた。呑気に両手で顔を洗っている。余りにも眩し過ぎて目を擦っているのかもしれない。あれは何だろう?目まぐるしく動いているあの白い光は何だろう?ゆっくりと黄金虫が私の指の先へと歩き始める。私は他の指を全部閉じて人差し指だけを空に向かって伸ばした。爪の先が私の知らない海に重なる。一歩、一歩、黄金虫がその指を昇っていく。まるで梯子を登っているようだ。私の知らない海と私との間に伸びた細い梯子。私はそれを登る事が出来ない。私自身が梯子なのだ。一歩、一歩、黄金虫が私を登っていく。苦しい。息が出来ない。私の身体はいつの間にか石のように固くなっていた。本当の梯子になってしまったらしい。オレンジ色の電光掲示板が電車の到来を告げる。椅子の上に座っていた人たちが立ち上がる。白い雲が目まぐるしく流れていく。指の上の黄金虫はその空を見ていた。不思議そうに私の知らない海を見ていた。また両手で顔を洗っている。自分の瞳を疑っているのかもしれなかった。あれは何だろう?目まぐるしく動いているあの白い光は何だろう。地響きが鳴り始める。電車の顔が遠くに見え始めた。ホームの崖っぷちに人が集まり始める。私は動けなかった。まるで身体が動かなかった。私は金縛りに遭っていた。私は駅の古い柱だった。ずっと昔からここで駅の屋根を支えてきたのだ。恐ろしい重力が私の肩に圧し掛かる。屋根と屋根の上の空の重みが私の肩に圧し掛かる。私の知らない海が私を圧し潰そうとしている。しかしもう苦しくはなかった。私はその駅の屋根の上に居た。あれは何だろう?目まぐるしく動いている白い光はなんだろう。私は両手で目を擦った。見た事も無い海が私の頭の上を覆っている。すると突然私の背中が二つに割れた。中から透明な羽根が見え始めた。次の瞬間にはもう私の身体は宙に浮いていた。強い風とともに物凄いスピードで電車が突進してくる。私はそれを器用に避ける。また更に高く飛び上がる。みるみると駅が街が小さくなっていく。でも私は一度もそれを振り返らなかった。吸い寄せられるように当たり前のように私は私の知らない海へと飛んでいった。

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 私は私のこの身体を余り信じていない。私は私のこの顔を余り信じていない。嘘のようだ。これが私だなんて。何かの悪い冗談だ。その感じは年齢を重ねる毎に強くなっていく。段々と私と私の身体が乖離していく。幽体離脱。私は一時期それに凝っていた。インターネットで幽体離脱関係の事を調べまくっていた。目くるめく夢じゃないか?自分の身体を抜け出し自由にこの世界や知らない世界を歩き回り飛び回るなんて。本を読む人は勿論あらゆる架空の世界に浸りたがる人間の大概はそんな幽体離脱の状態を求めているのじゃないのか。三島由紀夫澁澤龍彦との対談の中でこんな事を言っていた。「結局、文学の役割っていうのは読者を何処かに連れて行ってくれる。それしか無いんじゃないだろうか」とにかく私は幽体離脱に凝っていた。夜、部屋を真っ暗にして瞑想用のBGMを流し、頭から足先まで少しずつ全身の力を抜いていく。瞳は閉じて、意識は天井の上に集中する。しかしそのまま眠ってしまう事が殆どだった。ごく稀に成功したかに思えたときもあった。しかしそれは夢と区別が付かなかった。私の幽体離脱実験は結局そのまま熱が冷めてしまった。それと同時に私は文章を書き始めた。小説を書き始めた。詩を書き始めた。私の幽体離脱への欲望は文学へと移行していった。いや、帰還していったと言った方が良いだろう。私は子供の頃から本が好きだった。それはやっぱり本というものが私を何処かに連れていってくれるものだったからだ。私は常に何処かに行きたい子供だった。ここではない何処かに行きたい子供だった。私の幽体離脱願望は子供時代から始まっていた。でも結局私を完全に何処かへ連れて行ってくれる本とは出会う事は出来なかった。なぜなら私は今ここに居る。ハーメルンの笛吹き男は私に現れなかった。私は彼だけを待っていた。私は私を二度と戻る事の出来ない深い崖の底に誘ってくれる笛の響きを待っていた。それだけを待っていた。私は一冊の本を待っていた。私は一人の人間を待っていた。しかし現れなかった。なぜなら私は今ここに居る。椅子に座って息をしている。私は苦しい。それは生きているからだ。ならば私は死にたいのか?それも違う。私は何処かに行きたいのだ。私は空を飛びたいと願っている一匹の毛虫なのだ。
 毛虫はやがて蛹になり美しい蝶となるだろう。しかし、蝶に毛虫だったときの記憶が残っているだろうか。蝶の意識は毛虫と連続しているのか。或いは毛虫だった頃の意識は完全に無くしてしまうのか。蝶と毛虫は別な生き物なのか。どれも違う。毛虫は蝶を内包しているのだ。毛虫は蝶として羽ばたく自分の未来を内包しているのだ。要するに未来の意識が彼にはあるのだ。毛虫が蝶になるのではない。蝶が毛虫になっているのだ。蝶の意識が毛虫の衣装を纏っているのだ。だから毛虫はその本来の自分の姿になろうといつも藻掻いている。やがて毛虫は蛹となり蝶となるだろう。蝶となり花と花の間を飛び回るだろう。しかしそれすらも彼の本当の姿ではないのだ。蝶は蝶を超えた何かの意識を持っている。それはやはり未来の意識だ。だから蝶は花と花の間を藻掻いている。本来の自分になりたいのだ。蝶は蝶でない。私もまた同じだ。私は私ではない。私は遥か未来に存在する。この私はその私を覆う衣装に過ぎない。だから息が苦しいのだ。だから何処かへ行きたいのだ。私は私になりたいのだ。本来の私になりたいのだ。それはきっと全てだろう。それはきっと無だろう。それはきっと神だろう。私は神になりたいのだ。私は遥か未来に出現する完全になりたいのだ。それは同時に遥か昔に存在した完全でもある。それこそが私なのだ。それ以外に私は存在しない。私は蝶なのだ。蝶は私なのだ。

聖雨

 ※<R18>性的な表現があります。18歳未満の方は移動ください。

 

 関東にまた台風が近付いている。大粒の激しい雨が降ったかと思えば間も無くしてそれが嘘のように晴れ渡る。性急で気紛れな大空の交響曲。その出鱈目な指揮の動きに合わせて大勢の蝉たちが鳴いたり一斉に鳴き止んだり、街行く人々も傘を開いたり閉じたりと今日は忙しい。冬子もそんな末端の演奏席をうろうろとしている一人だった。彼女の楽器は透明なビニール傘だ。それは数カ月前の丁度こんな日傘を持って無かった彼女が百円均一で購入したもので酷く小さい造りで更には受骨の一本が折れてしまっている。冬子はこの傘をとても気に入っていた。安っぽくボロボロ。自分にお似合いな気がしていた。真っ黒な半袖のワンピースを着た彼女は雨が降る度にそのビニール傘をくるくると回転させた。それが彼女お得意の演奏方法だった。ほら、また雨が降ってきた。冬子がぎこちない手付きで傘を開こうとしている。受骨が折れているから傘を開くのも一苦労だった。しかし冬子の手は急に止まった。何か変だ。雨が降っているのにとても明るい。明る過ぎる。冬子は傘をそのままに空を見上げた。それはとても不思議な光景だった。空は端から端まで遍く灰色の重たい雲に覆われている。なのに彼女の真上だけは四角く青い空の穴がぽっかりと空いている。まるで窓だ。その窓の中には太陽が浮いていた。ぎらぎらと眩しい光と熱を放ちながらこちらを見ている。冬子の顔が上気した。太陽は彼女の神様だった。「今日という日は貴方の御顔を見る事は出来ないと思っていたのに」更には夥しい数の雨粒がそんな太陽の光をきらきらと纏って降り注いでくる。黄金色の雨粒。それは冬子の髪や腕、真っ黒なワンピースを濡らした。とても温かい。冬子は興奮した。まるで太陽の精液を直接浴びているようだった。
「あの御方が窓の向こう側から精を放出なさっている」それは無限に続くかのような射精だった。植え込みのつつじ、その緑の葉一枚一枚の一面に、道の脇に止まる白い自動車の屋根の上に、黄金色の精液は至る所に降り注ぎ、張り付いて、甘い匂いを辺り一帯に漂わせていた。青いベンチの上に鳩が座っている。もう雨に濡れてびっしょりの羽毛。でも鳩はとても気持ち良さそうにうっとりと目を瞑って動かない。その鳩を見て冬子の興奮は更に高まった。
「もったいない。もったいないわ」冬子はビニール傘を道に捨てた。彼女の楽器を捨ててしまった。両手と両腕を大きく広げ、冬子は顔を空に、窓の中の太陽へと晒した。冬子の蒼白い顔が黄金色に染まる。温かい雨粒が見開かれた黒い瞳に溢れ、視界が蜂蜜色に歪む。
「もっとかけて。もっとかけて頂戴」激しい雨は冬子の額を打ち、鼻の先を打ち、頬を打った。温かい雨は大きく開かれた冬子の淡い桃色の唇を打ち、白い歯の表面を打った。そうしてその黄金の液体は冬子の赤い舌の上に流れ着くとそのまま激流のような勢いで彼女の暗い喉の奥へと落ちていった。冬子はそれを一滴も残さまいと喉を震わせて飲み干した。冬子は瞬く間に全身びしょ濡れになった。そんな彼女に道行く人々の奇異と恐怖と好奇心の入り混じった視線が突き刺さる。しかし冬子にはもう関係が無かった。冬子と太陽は一つになっていた。彼女は完全な幸福に充たされていた。だが、そんな幸せも長くは続かなかった。冬子は突然その場に崩れ落ちた。もう空を見ていない。汚い地面を見ている。その二つの瞳には雨ではない涙が溢れていた。冬子は気付いたのだった。冬子は気付いてしまったのだった。それは精液などでは無かった。勿論、雨粒などでも無かった。それは血液だった。それは太陽の血だった。冬子の神様はあの窓の向こうで死に絶えようとしていた。自分で自分を切り裂いて死んでいこうとしているのだった。
「そんな事も知らずに私はあの御方の血をはしたなくも飲んでしまった」完全に孤独なあの御方。きっとあの御方もあの窓を見ていたのだろう。でも、その窓には…。冬子は瞳を閉じた。何も見えない。完全な闇が広がる。それが彼の持っている唯一の窓だった。冬子は再び瞳を開いた。「どうしたら。どうしたらいいの?」するとさっき捨てた彼女のビニール傘が目に入った。悲しそうに横たわる彼女の楽器。透明なその身体が黄金色の雨に輝いている。冬子は興奮してその傘を手に取った。傘を開いてその中の折れた受骨を見詰める。爛々と輝きだした瞳。冬子はその黒い受骨を思いっきり引っ張った。受骨は驚く程簡単に千切れた。冬子は再び空を見上げた。窓の中の太陽を見詰める。ぎらぎらと眩しい光と熱を放ちながらこちらを見ている。しかしとても悲しそうに見えた。冬子は微笑む。「もう大丈夫です。私が貴方の太陽になりますから」そう言って冬子は真っ黒なスカートの裾を捲り上げた。真っ白な太腿が露わになる。最初の雨粒がそこに落ちるよりも早く、彼女は先端の尖った黒い受骨をその太腿に突き刺した。
 それは苦痛というよりは非常な衝撃だった。しかし直ぐに鋭く焼けつくような痛みがやって来る。眩暈がして冬子は歯をきつく噛みしめた。受骨を引き抜く。その小さな穴からゆっくりと赤い血が噴き出してくる。冬子の白い太腿が血に汚れていく。みるみると赤い血が溢れ出してくる。黄金色の雨粒がその血の上に降りかかり一つになる。道行く人の悲鳴と怒声が聞こえる。男たちが彼女を止めようと駆け寄って来る。しかし冬子には関係が無かった。何度も何度も黒い受骨を太腿に突き刺す。「まだよ。あの御方の苦しみはこんなものじゃない。まだなのよ。こんな血じゃあの御方を照らせない」男に肩を掴まれた。男に腕を掴まれた。「離せよ」大声で叫びながら身体を振り回し冬子は必死に抵抗する。しかしすぐ地面に押し倒されてしまった。黒い受骨を取り上げられてしまった。スーツを着た眼鏡の男。ポロシャツを着た若い男。その二つの顔の間に窓が見える。太陽が見える。あの御方の顔が見える。黄金色の雨粒が降り注ぐ。冬子は真っ赤に染まったその両手をその窓に向かって差し伸ばした。「見えていますか。見えていますか。これが私の太陽です。私の赤い血は貴方の事をちゃんと照らしていますか」

窓の外のひまわり

 酷い憂鬱と倦怠に包まれている。憂鬱がみしみしと身体を圧迫する。一歩たりとも動けない。硬い床の上に横たわっている。蝉の声が遠くに聞こえる。また更にみしみと身体が圧迫される。衝動的に自分の身体を引き裂いてしまいそうだ。そうしたら何かが出ていくだろう。少しは楽になるだろう。この憂鬱の正体は血か?血を流せば血を吐きだせば楽になるのか。ナイフが欲しい。だが、ナイフを手に入れる気力すらない。仕方がない。煙草で我慢する。血の代わり白い煙を吐き出す。少し楽になる。これが赤い煙だったらもっと楽になるだろう。遠くで蝉の声が聞こえる。部屋の外にはきっと太陽が輝いている。俺は絵を描き始める。最初は慎重に丁寧に描いていた。だが途中で色鉛筆を持つ右手は殆ど痙攣的な動きとなり、視線の焦点が合わなくなってくる。待て。冷静になれ。もっと良く見るんだ。少し待て。止まれ。だが俺の右手は片時も止まらない。鉛筆の芯が折れる。俺ははっと我に返る。目の前に酷い絵がある。酷く歪んだ絵がある。俺はまた更に憂鬱となった。絵を描く前とは比較出来ない程の憂鬱さだ。俺は絵を投げ出して煙草を吸う。酷い憂鬱に陰惨さが加わる。陰惨な憂鬱。いくら煙を吐いてもそれは消えない。みしみしと身体が圧迫される。絵が目に入る。煙草を喫っているのも忘れて俺はまたその絵の続きを書き始める。
 結局、何がしたいんだ。俺は窓が欲しいんだ。俺は自分で自分の窓をつくっているのだ。だが、余りにも窓が欲しい気持ちが強い故に俺がつくる窓はいつも酷く歪んだものになってしまう。外を見る事の出来ない壊れた窓がばらばらと俺の部屋中に転がっている。酷く陰惨な憂鬱が転がっている。俺の欲望と希求の死体が転がっている。
 男が女とセックスするのも同じだろう。男にとって女の身体に空いているあの穴は窓なんだ。彼はありったけの自分をそのペニスに集中勃起させてその窓の中に突っ込む。あの窓の外に行きたい。この観念の外側に行きたい。何度も何度も彼はペニスをその暗い穴の中に擦り付けるだろう。で、イってしまう。確かに彼は窓の外へ行けただろう。彼の真っ白な精子は無事現実に辿り着けた筈だ。しかし身体の方に残された彼は窓の前に留まっている。結局、彼は窓の外に行くことが出来なかった。限りなく現実へと近付きながら彼は現実には行けなかった。恐ろしい倦怠と空虚感が彼を襲う。回復するには時間が掛かる事だろう。一番良いのは腹上死する事だ。イクのと同時に本当に逝ってしまう事だ。そうすれば彼は本当に完全に窓の外へと行く事が出来る。残されるのは彼の死体だけだ。誰でも一回は憧れた事があるんじゃないのか、腹上死。何もセックスだけじゃない。絵を描きながら死ぬとか。踊りながら死ぬとか。言うなればつまり祭りの絶頂の最中に死ぬって事だ。祭りっていうのは窓なんだ。その村全体、国全体が窓になるんだ。窓の外の現実が限りなく自分たちのもとへと近付いて来る日。一番幸福な死に方とはそうして祭りの絶頂の最中に死ぬ事なんじゃないか?完全に窓が塞がれている病院の白いベッドの上で衰弱して死ぬのが幸福なのか?古代や中世の男たちが戦に明け暮れていたのは戦が彼等の窓だったからだ。その戦場で死ぬ事は彼等の本望だっただろう。彼等は窓の外に行けたんだ。男とは窓の外に行きたい生き物なんだ。いつも自分に相応しい死に場所=窓を求めているのが男なんだ。
 蝉がまだ鳴いている。片時も鳴き止まない。鳴いているのは雄だろう。男だろう。彼は何故鳴いている?雌の蝉に彼を挿入したいからだ。彼も窓の外に行きたくてあんなに激しく鳴いているのだ。あんなに小さい蝉の雄も観念の内側に生きているのだ。俺の憂鬱とは比較できない程彼は憂鬱なんだ。自分の身を粉にして鳴き続けなければならない程彼は酷く陰惨な憂鬱に包まれているんだ。しかし窓に辿り着けるのは数限られた蝉だろう。窓へと辿り着けずに死んでいく蝉が殆どだろう。だが彼等は窓へと向かうその最中に死んだんだ。セックスの最中に死んだんだ。祭りの絶頂の最中に死んだんだ。結局、彼等は窓の外へ行けたのだ。夏という巨大な窓は一匹残さず彼等を窓の外にある現実へと連れていく。
 嗚呼、狂いそうだ。狂ってしまいそうだ。窓の外に行きたい。部屋にある窓、そんなものは偽物の窓だ。それはただのガラスの板だ。透けて見えるのはただの観念だ。観念に包まれた街の姿だ。現実は見えない。現実へは行けない。偽物の窓だ。鬱陶しい。こんなもの叩き壊してしまいたい。外に出よう。外を歩けば少し楽になるだろう。少しは本当の窓に近付ける事だろう。
 俺は白いTシャツとジーンズを着て外に出た。髪はぼさぼさだ。髭も剃っていない。瞳はきっと左右に落ち着かなくぎらぎらしているだろう。まるで異常者だ。夏に発生する異常者だ。まるでゴッホだ。俺はゴッホのように街をふらふらと歩き回る。太陽の禍々しい熱線。太陽の国日本を探し求めて野原を歩き回ったゴッホのように街を歩き回る。彼も窓を探し続けていたんだ。酷く陰惨な憂鬱、言い換えるなら完全な孤独を抱えて窓を探していたんだ。彼は絵を描いている最中にそのまま失神する事が多々あった。そのまま死ねば彼は窓の外へ行けただろう。だが、彼は無残にも復活してきた。また更に酷く陰惨な憂鬱を抱えて野原を歩き回り窓を探し続けなければならなかった。それでも足りなかった。彼は自分の片耳を切り裂いて自分に窓をつくった。しかしそれでも足りなかった。ついに彼はピストルを撃って自分の胸に窓を開けてしまった。そうして彼は窓の外へと行ってしまった。だが、ゴッホは誤解していた。この我が国日本は太陽の国なんかじゃない。窓の外の国なんかじゃない。他のどんな民族よりも太陽に憧れている民族なんだ。窓の外に憧れ続ける人々の国なんだ。自分の腹を刀で引き裂いて窓をつくる位に窓の外へ行きたかったんだ。太陽が眩しかったんだ。日本の芸術はみんなそんな太陽への憧れによって出来ている。光のみによって描かれている。窓の外だけを描いている。だからゴッホは誤解した。日本人の憧れを見てその憧れ自体が日本だと思ってしまった。しかしそれは美しい誤解だ。美しい誤解というものがあるのだ。ゴッホは日本人だった。俺の部屋の白い壁にはゴッホのひまわりが飾られている。水色の壁の前、花瓶に挿された黄色いひまわり。それは窓から見える太陽そのものだ。
 鉄の街。鉄以上に強固な観念に包囲されている街。窓なんて一つもない。全て塞がれている。当たり前だ。これは一個の船の底なのだから。船側や船底に穴が開いていたら大変だ。船は沈んでしまう。穴から海が入り込んで来て船は沈んでしまう。だが、俺が見たいのは海なのだ。この手に触れたいのは海なのだ。海が見える窓が欲しいのだ。俺は一匹の魚なのだ。海豚なのだ。人魚なのだ。海の水がないと苦しくて死んでしまうのだ。俺が死ぬのか、船が沈むのか。俺はこの船に穴を開ける。俺はこの船に窓をつくる。絶対に沈まないこの船を海に沈めてやる。俺は書く。俺は描く。俺は歌う。それがこの船に穴を開ける俺の武器だ。
 しかし、この街にも一つだけ窓はあった。しかも信じ難い程の広大無辺さ。それは空だった。大空だった。この街の上は遍くその青い窓に頭上を覆われていた。コンビニの焼けるように熱い駐車場の上に立ち止まって俺はその窓を見詰めた。肌と瞳を焼く焼き尽くす禍々しい聖なる太陽がその中央に鎮座していた。あれこそ窓の外にある現実そのものなのだ。あれこそゴッホのひまわりなのだ。だが、その窓は余りにも高く遠過ぎて、俺の背中に羽根なんかは無かった。俺は鳥ではなく地を這いつくばる惨めな人間だった。悲しい程に酷く陰惨な憂鬱を抱えた人間だった。まだ蝉が鳴いている。膨大な蝉がまだ鳴いている。おい、やめろ。もう鳴くな、蝉。お前たちには羽根があるだろう。騙されるな。本当の窓はあそこにある。飛んで行くんだ蝉。太陽に向かって飛んでいけ蝉。

中村光夫の文學論と三島由紀夫

 芸術とは教育の敵であり、芸術家とは社会の敵である。私は幼い頃から私はその本質を無意識的に朦朧と感じ取ってはいた。しかしそれを明確な言葉として意識するようになったのは最近の事であって、中村光夫の文學論という本を読んでからの事である。
 中村光夫という今では殆ど忘れられてしまった批評家(本屋に行っても彼の著作を見付けるのはなかなか難しい)が私の意識の片隅に住み始めた経緯、それは私が日頃何かとあれば紐解いている三島由紀夫の日記の中に彼が幾度となく登場するからであった。とはいえ三島の日記の中で批評家中村光夫の仕事について語られている個所は殆ど無く、日記に綴られているものは大抵何月某日中村夫人のお見舞いに行ったとかそういう私生活上の三島と中村の交流についてであって、それ程中村光夫という人が重要度を持って私の記憶に刻まれていたわけではない。三島の彼に対する風貌描写を踏襲して恰幅の良い批評家のおじさんのイメージにされた中村光夫は私の意識の片隅に小さくひっそりと息をしているのに過ぎなかった。
 そんな中村光夫の著作文學論を私は古書店で見付けて勿論手に入れた。ようやくあの恰幅の良いおじさんの本が読める。家に帰った私は早速階段の踊り場で煙草を片手にその本を読み始めた。しかし題名の文學の文字を見ても解る通り、戦前の出版物であって最初から最後まで旧漢字で書かれていている。旧漢字に対する知識など皆無である私は当然これを読み進めるに難儀する事必然かに思われたが意外とすらすら読める。それどころかぐいぐいと読める。旧漢字という障害をものともしない程中村の文章は明晰ですっきりと分かりやすかった。かといって冷たく機械的な論文のような文章ではない。一文一文から或いはその行間から中村の文學というものに対する真摯で誠実な情熱がひしひしと胸に伝わって来る。しかしその大部分は私小説を始めとした日本近代文學への批判であった。文學に対する愛深き故の鞭であった。では一体彼は近代日本文學の何を批判したのか。
 その前提としてまず我が国日本の明治以降の急激な近代化という現象がある。言うまでもなく浦賀沖への黒船の到来に始まる欧米の出現とその脅威は我が国に重大な衝撃を齎し、我が国は迅速な近代化の必要に迫られていた。近代化、言い換えればそれは文明開化であり我が国の西洋化である。西洋化する為には西洋から学ばなければならない。我が国は西洋に多数の留学生を派遣し、また多数の西洋人をこの地に招き、そうする事によって西洋の政治の技術、科学の技術、法律の技術、ありとあらゆる西洋文明の技術を獲得しようと努めた。芸術の分野もその例外では無かった。音楽、美術、そして文學の技術を西洋から学び取ろうとした。文學の技術、それは小説の技術であった。今日誰もが思い浮かべるような小説のイメージ、そんなものは明治以前には無かったのである。それは明治大正昭和と数知れぬ小説家文学者たちが西洋の小説技術を苦心刻苦の末我が国の文學に摂取吸収して造り上げた遺産である。現代の作家の大概はそんな先人たちの遺産を使って遊んでいるだけの道楽息子である。それはさておき、我が国の文學者たちは西洋の小説の技術を驚くべき速さで吸収し我がものとしていった。ジェットコースターのような速さで我が国が近代化し西洋列強の仲間入りをしたのと同じように日本文学も近代化した。中村光夫が問題として指摘するのはそんな日本文学の急速な近代化から零れ落ちていったものについてである。
 近代の文学者たちは西洋の作家たちから何を学んで何を学ばなかったのか。先に述べたように小説の技術について(その大部分を占めるのはリアリズムの手法である)我が国の文学者たちは申し分なく体得した。しかし学んだのはその表面的な技術だけであった。西洋の作家たちを貫く根本精神、つまりは小説の原理については殆ど学ばれず、或いは無視されたのだと中村は言う。しかし考えてみればそれも当然の事だ。もし仮に逐一立ち止まって小説とは何か?作家精神とは何かなどど頭を悩ましていたらこのような文学の急速な近代化は成し得なかった筈で、我が国が成し得た文学の急速な近代化は中村が言った事を逆説的に照明している。では一体西洋の作家たちの根本精神とは何であろうか。中村はルソー、バルザック、フローベルなど西欧を代表する作家たちの例を引き合いに出してその作家精神というものを説明する。それは社会と戦う精神である。その社会を構成し大衆が頑なに信じているありとあらゆる既成概念に対して否と叫ぶ精神である。つまり作家とは社会の敵なのだ。彼はペンを剣のように持って強大な社会に対して戦いを挑む。絶望的な戦いである。彼はついに破れ去り悲劇的な最期を迎えるだろう。しかしそれを十分に理解していながらも戦わずにはいられない。ペンを持たずにはいられない。彼が彼自身である為に。それが作家精神である。
 一つの小説というものを考える。その小説を面白くするのに一番必要な要素とは何であろうか。それは主人公の敵の存在である。敵を障害と言い換えても良い。全く敵も障害も存在しない小説ほど退屈なものはないだろう。たとえ主人公の外側に敵が居なくても主人公の内側に敵は必要である。葛藤が敵の役割をする。何にせよ小説の中にドラマというものが生まれる為には敵が必要なのだ。それは社会というものに於いても同じである。そのその社会の価値観をより豊かにし、結果的にその社会の完全性を高める存在、それはその社会に於ける敵なのだ。作家とは自覚的に或いは無自覚的にその社会の敵の役を引き受ける人間の事なのだ。言ってしまえば社会の生贄なのである。
 しかしそんな作家というものの本質を我が国の文學者たちは学び取らなかったと中村は言う。故に彼等は社会に対して迎合した作品を書くか、或いは社会から完全に逃避した作品をしか書き残さなかった。この社会というものと敢然と戦う悲壮なる決意を持ってペンを握った作家はついに現れなかったと。
 中村がこの本で語っているのは文學に於けるそんな作家精神についてのみだが、私はその対社会の精神はそのまま芸術家の精神と言って良いと考える。芸術家は社会と戦わねばならない。もっと言えば彼は戦わざる負えないのである。なぜなら彼は生まれながらにしてその社会の敵だからである。どこまでいっても社会の枠の中からはみ出してしまう人間、それが芸術家であり作家である。彼に残された選択肢は二つしかない。社会に殺されるか。社会そのものをペンによって破壊して新しくするか。その二択である。言い換えるならそれは革命精神である。
 すると一つの光景が白く眩しく私の脳裏に浮かぶ。それは1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地のバルコニーの上に立つ三島由紀夫の姿である。雨のような野次の中、固く拳を振り上げ、あらん限りの声を振り絞って自衛隊員たちに対して決起を訴える彼の姿。しかし、自衛隊員たちはまるで石像のように微動だにしない。これ程に作家と社会というものの絶望的で感動的な敵対関係を象徴している構図は無いだろう。彼はあのときもう既に法律を破っていた。法治国家と政府そのものの敵になっていた。生命の尊厳、ヒューマニズム、経済至上主義、アメリカ由来の物質主義、美しさを忘れ去り俗化した戦後社会すべての敵になった。いや、彼は最初から敵だった。彼は作家だったのだから。
 しかし三島の革命は失敗に終わった。彼は自殺したのではない。彼は社会に殺されたのだ。この社会の不完全性を彼は彼の生命によって補完されたのだ。彼はやはり本当の作家だったのだ。本当の芸術家だったのだ。
 中村光夫は当時まだ健在だった。おそらくはテレビであの光景を見ていた事だろう。彼はどう思っただろうか?自らが夢にまで描いた本物の作家がその作家精神の当然の帰結として滅びていく光景を見て。中村光夫は何を思っただろうか。