石の宗教の誕生

 もう暫くすると紫陽花が満開になる。それから蝉たちが鳴き始める。言い換えるとそれは紫陽花の復活であり、蝉たちの復活だ。去年枯れていった紫陽花や散っていった蝉たちの事を我々は知っている。そのようにして我々日本人は生命というものの復活を容易に信じる事が出来る。終わりは始まり。始まりは終わり。春夏秋冬、四季の巡りがある事によって我々の時間はぐるぐると回り、その事によって自然生命の法則、法、言葉というものの永遠を頭ではなく肌で感じ取る事が出来る。仏教の輪廻思想を待つまでもなく我々日本人は永遠に続く生命の円環を知っていた。輪廻思想はその実感を理論化したのに過ぎない。だから我々は繰り返し繰り返しの時間の中を生きている。時計というものが発明される遥か前から丸い時計の中に閉じ込められているのだ。しかし、砂漠は違う。砂漠での時間は一直線だ。春も秋も冬もなく、あるのは永遠の夏、それも地獄の夏で、ひとたび滅びた緑のオアシスは黄色い砂の中に飲み込まれ二度と復活しない。残酷な太陽の熱波は容赦なく時間を前へ、最後の審判へと向かって押し進め、結局最後には骨、石のように硬い白骨だけが残される。そうだ。この骨だけだ。ありとあらゆるものは滅び去る。骨、更にはもっと硬い石だけが永遠なのだ。ユダヤ教キリスト教イスラム教。石、非生命的なるものへの信仰と厳格なリアリズムの精神はおそらくそのような逃げ場のない酷烈な太陽の下に誕生したのだ。

石への信仰

 言葉というものに対する態度姿勢がその人間延いてはその民族の性格性質及びあらゆるものに対する方向性を決定付けるという考えが私の中で定説となりつつある。試しに日本人と西洋人を比較してみるとそれは明白だ。西洋人は言葉というものを全然信用していない。歴史的に彼等の文化文明の根幹を成してきたイエス・キリストの言葉。最も神聖なその言葉を彼等は十字架なしに信じる事が出来なかった。つまり現実にイエスが十字架の上で赤い血を流し死に絶え、そこからまた現実に肉体を持って復活するという客観的な現実、目に見える形の奇跡に接しなければ神の言葉を信じられなかったのである。もっと遡れば彼らはモーゼが海を二つに割らなければ彼の言葉を信じる事が出来なかったのであるし、後にも聖人が聖人として認定される為には彼が現実に於いて奇跡を行ったという形跡が必要だった。つまり彼ら西洋人は目に見える奇跡、現実に対して影響を行使し乃至行使し得る言葉のみしか信じなかったのである。彼らが本当に信じていたのはその目の前に歴然と見えて揺ぎ無く存在している石だった。その石を割れない言葉は無用。しかし彼等の言葉、精神、神を証明する為には石を割る必要があり、だからその石そのものを研究に熱を上げた。科学の精神。更にはその石をただ割るだけではなくて、彼等の言葉の形にその石を加工、彫り刻む、つまりは彼等の言葉をそのまま現実の上に石として顕現させようとした彼等の芸術。石、言い換えるなら、それは永久不変の現実だ。西洋人、彼等は永遠、永遠に続く自分たちの未来を信仰した。根っこからの進歩主義。ポジティブ。彼等の時間は常に前へと進んでいる。時間を前へと運ぶ事の出来ない言葉はやはり彼等に不要なのだ。科学の精神とリアリズムの芸術、更には進歩主義、これだけを見ても彼等西洋人がこの現実、石の世界で無敵の覇者となったという事も頷ける。それは彼等が石というものを信仰し始めたときから内包されていた彼等の未来だったのである。

ロマンティックの源泉

 今日は34回目の誕生日。私は毎回この日が来る度に何か素敵な出来事が起こるのではないかと意味もなく胸を躍らせている。しかし当然の事ながら毎回その期待は裏切られ、34回目の今日もそんな素敵な出来事は起こる事はなかった。誕生日だけではない。クリスマス、大晦日、夏祭りの日、私は同じように訳の分からぬ期待で胸を躍らせ、結果的にいつも失望と落胆に沈んでいる。まるで子供だ。しかしこの性質は死ぬ迄治る事がないだろう。私もまたロマンティックの病に冒されているのだ。

 しかし、素敵な出来事、ロマンティックとはそもそも一体何だろうか。今まで漠然としていたそのイメージを今の私ははっきり明瞭に説明する事が出来る。それは詩が訪れる劇的な瞬間だ。それは言葉の世界と現実の世界、太陽と月がぴったりとひとつに重なり合う強烈な瞬間だ。私は普段、暗く冷たく乾いた月の砂漠を歩いている。私は普段、月の丘に一人立って熱くしかし悲しい狼の瞳で彼方に浮かぶ太陽を見詰め続けている。降りて来い。降りて来い。私の太陽。それは言葉が現実に降りて来る瞬間。言い換えるなら、あの夢と幻の世界とこの現実の世界との間に眩く荘厳な虹の架け橋が現れる瞬間。その時こそ私がロマンティックと呼んでいるものが顕現し、私の周りに素敵な出来事が光の如く充ち溢れるのだ。

 では一体何故、その素敵な出来事、ロマンティックを探し求めているのだろうか。それが私にとって未知のものであるからだろうか。いや、そうではない。私はロマンティックを知っているのだ。それは遥か私の幼年期に満ち溢れているものだった。かつて太陽と月とはひとつのものだったのだ。眩い光と熱に包まれた黄金の楽園、その中で私は素敵な事だけに囲まれて生きていた。そこに特別な日などなかった。毎日が特別だったからだ。そこには詩すらもなかった。詩そのものの世界に詩は必要ないからだ。紛れもなくそれは私自身の神話時代だったのである。しかし幸福で完全なその神話の時代も遥か昔に終わってしまった。私が夢と現実、その言葉を知った瞬間から黄金色に輝く私の神殿は脆くも崩れ去っていったのである。私は永遠の流浪者となった。しかしだからこそ私は私自身に失われたその故郷、私がかつて誕生したエデンを探し求めているのである。それは尽きる事のないノスタルジア。光そのものへの胎内回帰。それこそが私のロマンティックに対する切望と探究と冒険の源泉なのである。

 さて、この文章は34回目の誕生日を機に私にとって苦手な日記というものを綴り始めようと決意して書いた文章なのだが、書いているうちに誕生日は過ぎて翌日に、更に推敲していたらその翌日も終わりそうになっているという有り様で、今日の日記にはまだ当然手を付けてもおらず、前途多難。私の日記への挑戦は始めから暗礁に乗り上げているという始末なのである。

漫画のリアリズム

 現代の我が国の言論界に於いて明治の暁以来権勢と猛威を振るっていた蒼白きインテリ、つまりは観念的思考の持ち主はすっかりとその姿を消した。小説に於いても純文学は滅びたと言われる。しかしそれは当然の帰結で、野性的思考を喪失し、青臭く独りよがりで無味乾燥な観念の遊戯と化した文学に生の現実を生きる大衆が見向きもしなくなるのは当たり前の事である。小説家の三島由紀夫ドナルド・キーンに宛てた手紙の中には「最近の小説は詰まらないので自分は漫画ばかり読んでいる」と書かれている。小説という媒体はその野性を漫画に奪取吸収されていってしまった。言い換えれば行動と冒険の領域を小説は漫画の主人公に取られてしまったのである。
 漫画というものは絵と文字によって構成されている。絵がある事が小説との決定的な差異である。その漫画家の画力にもよるが、漫画はその絵がある事によってある程度以上の現実性と具体性が保証されている。文字の読めない子供は小説の本などには見向きもしない。しかし絵本や漫画ならば例えそこに書いてある文字が読めなくとも子供は興味を示す。それは絵というものが例えばその隣に置かれている本物の林檎と同じ様な強度を以ってそこにものとして存在しているという現実性や具体性を保持しているからである。だからそんな絵というものを使用する事の出来る漫画に於いては先程述べたようにある程度以上の現実性と具体性があらかじめ確保されているが為に、その内容についてはそれ程現実性や具体性を気にする事無く、比較的自由に創作していく事が出来る。例えば一つ目の化け物が出て来ても構わないし、空を飛び回る人間が出て来ても構わない。或いは未知の能力を持った小学生が地球と全宇宙を救う事だって可能だ。そんな漫画の物語の内容に対してその読者たちは寛容である。それはどんな荒唐無稽で支離滅裂で非現実的な内容であったとしてもその現実性と具体性を絵が保証しているからである。俗に言う絵の説得力というものだ。ただ余りにも彼の絵が稚拙な場合、つまりは現実性と具体性を欠いている場合、その絵の説得力だけでは物語の現実性を保証する事が出来ない。その場合、彼は絵の技術を磨くか、或いは稚拙な絵はそのままに物語の内容に対するリアリティの強度を上げていかねばならないだろう。
 例えば、漫画家の始祖ともいえる手塚治虫の場合、彼はその絵を記号と割り切り、劇画に象徴されるようなリアリティのある絵を敢えて使用ない事によって、つまりは絵の説得力を極力使用しない事により、必然的に内容物、登場する人物や物語のリアリティを追及せざる負えない状況に自らを追い込んでいったのではないかと推測する。その結果としてジャングル大帝のレオのように大自然の中を生き生きと動き回るキャラクターとその物語を膨大に作り出す事に彼は成功した。もし仮に手塚がその絵に対して現実性と具体性を追求していたとしたら、登場人物や物語にそれ程のリアリティも活発性も、つまりは作品に生命は宿らなかった事だろう。その場合、物語と内容の必然性があらかじめ説得力のある絵によって奪われてしまっているからである。
 反対に言うと、絵に説得力のある漫画家はむしろ却って絵の説得力に甘んじて物語及び内容自体の説得力が疎かになる、そんな危機に絶えず見舞われている。画力は人並み以上とあるのに内容は空疎でちっとも面白くないという漫画が多く見られるのはこの為である。更にアニメーションともなるとそこに実際の動きや声、効果音、音楽なども加わり、そこにあるものとしての説得力は漫画とは比較出来ない程に向上する。しかしこれも物語と内容以外の説得力が上がった分だけ、物語及び内容に対するリアリズムの要求度は下がり、内容としては説得力に欠ける、つまり物ではあるものの生命の通わない作り物に堕する危機も漫画とは比較できない程に大きくなってしまうのだ。
 とはいえ、絵や音の説得力にそこにあるものとしての最低限のリアリティを保証されている漫画やアニメという表現媒体ほど、制作者側にとって自由に想像力を広げて物語を作る事の出来る環境は他に見当たらない。そこには自然主義以来、表層のリアリズムに囚われ過ぎて小説が見失った行動と冒険の領域が未だに健在である。三島由紀夫がもし絵を描けたならば漫画家になって今もその漫画を描き続けていたかもしれない。

血と汗の言葉

 社会的な地位と思考の関係。往々にして、その人間の社会的な地位が高まる度合いに比例して彼の思考に占める観念の領域は拡大し、反対に野生の領域は減退する。雲を突く高層ビルの頂きで高級な革張りの社長椅子にふんぞり返っている彼は観念的思考の持ち主であり、野性的思考は彼に殆ど失われている。反対に貧民街の崩れかけたアパートで暮らし、ほんの僅かな金を稼ぐために日々一日中汗を流し地べたを這いつくばっている彼は野性的思考の持ち主であり、観念的思考は彼に殆ど失われている。人間は空へと近付く程に観念と化し、人間は地に近付く程に野性と化するのだ。よく言われる政治家と庶民、或いは経営者と労働者の間に横たわる意識のずれ、乖離はこの観念的思考と野性的思考の埋め難い距離によって生じている。
 武士道。なぜそれが生まれたのか。江戸時代、その永きに渡る泰平によって支配階級であり知識階級でもあった武士たちの思考に於ける観念の領域は著しく拡大していった。反対に思考に於ける野性は失われていった。武士道の発生はその野性喪失に対する武士自身の危機感であり反動である。彼等は常に死を枕元に置き、且つ剣の道に象徴されるような厳しい肉体の自己鍛錬によって彼等に死んでしまった野性的思考を取り戻そうとした。そうする事で現に今も野性的思考の持ち主であり、紛れも無い生の現実の中を必死に汗を流し生きている被支配階級者、農民たちとの意識のずれ、乖離を埋めようとした。その結果が成功したかはさておき、武士道というものの理想はそこにこそあったはずだ。支配者と被支配者に於ける意識の亀裂、それが推し進む事は圧政を生み出す要因となり、更にそれを放置し続ければその社会自体の崩壊へと繋がってしまうのだ。西洋に於ける騎士道の精神、更には近代に於いて発生したダンディズムという男性の様式美も同じような危機感から発生したのではなかろうか。現代に於いても比較的感が鋭く賢明な経営者はジムに通ったりランニングをしたりと肉体的な自己鍛錬によって野性的思考を奪還維持し、汗を流している労働者たちとの意識の繋がりが断絶する事のないよう努力しているだろう。ヒアリング?意見調査?それでは不十分である。血と汗を流している者の意識を理解する為には自らも同じ様に血と汗を流さねばならない。血と汗、それは翻訳する事が不可能な一つの言語なのである。

観念の思考と野性の思考

 ものを書く人には二種類居て、それは知っている物事を書こうとする人と物事を知る為に書こうとする人である。前者は頭の中で既に完了している思考をただ紙の上に書き写すだけである。一方、後者はというと書き始める段階では何も無い。真っ白だ。それは言い過ぎた。イメージくらいはあるだろう。しかしそれは蜃気楼の靄のように酷く曖昧なものだ。書こうとする段階で彼の思考は完了していない。あくまでも彼は書いて考える人。もっと言ってしまえば彼にとって書く事と考える事は同じことなのである。
 私はというと絶望的に後者の方である。私は頭で考える事が出来ない。絶望的に出来ない。かつてハシビロコウというあだ名が付いていた程に平素の私は朦朧としている。かと思うと押し止める事の出来ない欲望や感情に流され翻弄されている。一匹の猫を思い浮かべるが良い。あれこそが私だ。猫は思考する事が出来ない。彼には欲望と感覚しかない。しかし神様はそんな猫である私に一本の鉛筆を与えて下さった。ついでに原稿用紙もくれた。すると。おお、何だこれは!私は考えている。猫のくせに私は考えている。しかし忘れてはならない。ここに書き記されているのは猫の思考だ。人間とは頭で考えるものである。これは頭で考えられた文章ではない。鉛筆を握り込む私の右手と右腕、更には二つの瞳、及び全身の感覚によって書かれた文章である。本物の猫もそうなのではあるまいか。彼や彼女はその小さな頭の中で考えているのではなく、目や耳、鼻や髭や舌、全身に張り巡らされた繊細で敏感な触覚、その肉体を以って思考しているのだ。
 猫はその感覚で捉えられるもの、具体物を使ってしか思考する事が出来ない。そんな彼の感覚から滑り抜けていくもの、それは即ち非感覚的なもの、つまりは観念である。
 猫には観念がない。私には観念がない。観念を理解する事の出来ない私は当然観念の言葉を理解する事が出来ない。私が理解する事が出来るのは非観念的な言葉、つまりは自分の五感と六感を通して感知できる言葉に限られる。言い換えるならばそれは野性の言葉であり、詩の言葉であり、赤い血で書かれた聖なる言葉である。それ以外の言葉は私を素通りしていく。大きな欠伸をして私はその紙の上にまるくなるだろう。きっとそのまま眠ってしまう事だろう。
 眠くなるかならないか、しかしこれは観念の言葉と野性の言葉とを見分ける重大な基準である。もし仮にそれが野性の言葉ならばそれを目の前にして彼はどうして眠る事が出来ようか。自分を引き裂き噛み殺す獰猛な白い牙、その絶対的な脅威、敵を目の前にしていながらどうして眠る事が出来ようか。
 一方、観念の言葉で思考する人間、即ち頭で考える彼はなぜ観念という非具体的、非実在的対象、つまりは決して見る事も触れる事も出来ないものを前にして眠気を催す事がないのだろうか。それは彼にとって観念というものが非具体的なものでも非実在的なものでもないからだ。彼にとって観念は具体的であり実在的である。彼はまるで本物の林檎を見るように観念を見、本物の林檎に触れるように観念を触る。三島由紀夫の日記に書かれていた事だが、スタンダールは自分の精神の具体的な形態を思い描く事が出来たそうである。スタンダールが頭で考える人間であったかどうかは知らないが、頭で考える人間とはそういうものだ。彼にとっては想像の林檎も現実の林檎も全く同じものなのである。猫が素通りする観念、それを具体物として感知出来る感覚器官が彼にはあるのだ。だから彼は観念を前にしても眠くなる事がない。更にはその観念が強力であり強大であればある程、その観念は彼にとって重大さを増す、つまり自分自身を打ち砕く敵として認識する事になる。敵を前にして眠る事が出来なくなるのは猫がその敵を前にして眠る事が出来ないのと同じである。
 頭で考える人間、彼にとって観念の言葉は確かな実在の木片である。そのはっきりとした形を見、またしっかりとした手応えを感じながら彼はその木片を組み合わせ積み上げていく。観念の思考とはそういうものである。もはや彼が考える為にペンや紙は必要ない。そんな具体的行為が無くても確かな実感及び抵抗を以って彼は彼の思考をぐいぐいと押し進めていく事が出来るのだ。
 しかし、頭で考える人間、彼にも弱点はある。確かに彼は観念を具体物として緻密に組み立て且つそれを壮大に押し広げて観念の一大建築物を造る事が出来るだろう。しかしその観念から零れ落ちていくもの、つまり非観念的な実存、生の現実を感じ取る野性の感覚が彼には欠落している。少しはあるだろう。彼も一応動物の仲間だ。だが彼が観念の思考を繰り返し、彼の中で観念が具体化していけばいく程、反対に彼は実際の現実が現実として感じ取れなくなっていく。そうしていつしか観念の林檎と現実の林檎が彼の中で逆転してしまう。彼は猫を素通りしていく。
 観念の思考をする人間、彼は野性の思考に関しては脆弱である。そんな彼が書き記すものは当然現実性に乏しい。私のような猫はその上で欠伸しまるくなるしかない。私にはそれが見えない。私には彼が見えない。猫には本当に在るものしか見えないのだ。

黒い蠢き

 蝉が落ちていた。さかさまにひっくり返り空を仰いでいる。玄関を出てすぐの白い石畳の上だ。良く見ると手足が動いている。ゆっくりとゆっくりと。片手で掴み取って私はその蝉を白い木の幹へと張り付けた。その蝉が木の上を目指してゆっくりと動き始める。私はその背中を見届けながら庭の門へと歩いていった。
 夕方、私は帰って来た。するとまた蝉が落ちていた。おそらくは朝の蝉だ。張り付けた木の根元に落ちている。今度はひっくり返っていない。しっかりと脚や腹を地面の上にくっつけている。その蝉を掴もうと朝のときと同じに私は手を伸ばした。しかしその手は途中で止まった。蝉の身体一面にびっしりと黒く小さなものが蠢いているのを目にしたからである。それは小さな蟻の大群だった。蝉は既に死んでいた。夥しい数の黒い死が彼の身体に張り付いていた。しかし同時にそれは夥しい数の生だった。私は吐き気を催した。だが同時に魅了された。一つの死の裏側に顔を見せた過剰な生命力、その力に私は圧倒されたのだ。
 三島由紀夫、彼の絵画調紀行文を一冊にまとめあげた著作旅の絵本、その本の中に於いて彼が熱帯と死の思想について語っている場面がある。ハゲタカやトカゲ、どぎつく派手な熱帯の動植物たちを前にして病に臥せった彼はその厭らしいまでもの生命力に嘔吐を催す。更にこのまま自分が病に死ぬとしてもそれは死に打ち倒されるという事ではなく、何か過度な厭らしい生命力に打ち倒されるのだと続けて語る。
 三島の言う過度な厭らしい生命力、それは正に今私が目の前にしている黒い蠢きそのものだった。
 蟻に限らない。無数に蠢く黒い虫の光景に大抵の人間は嫌悪を抱く事だろう。虫たちに限らない。蛇や鼠、どんな生き物でも数百数千と或る限度を超えた数を以て目の前に現れたとき、人間はその醜悪さに対して嫌悪、更には恐怖や戦慄さえもその胸に覚える事だろう。そのとき、目の前の生物それ単体の個別性はもはや溶け去り、彼が目の当たりにしているのは或る巨大な一つの生命のうねりであり、彼の生命を一瞬にして飲み込んでしまう過剰な生命の赤い炎そのものなのである。
 あらゆる醜悪さのイメージ、そこには必ず黒い死の影が付き纏っている。その黒い影を闇であるとか或いは無であるとか勘違いする人間もいる。それ程にもそれは真っ黒な色をしているのだ。しかしそれは闇でも無でもない。それは或る巨大な生命のうねり、過剰な生命の赤い炎の塊の色濃い影なのだ。言うまでもない。それは太陽だ。死の暗さとは空の頂きで燃え盛っている生命の火の源、あの太陽の厭らしく過剰な赤い炎、その過剰な影なのだ。三島はその本の続きで熱帯の死と太陽崇拝との切り離す事の出来ない緊密な関係を語っていたが、太陽は熱帯の死の上にだけではなく、ありとあらゆる死の上に燦燦と輝いている。誰もそれを免れる事は出来ないのだ。一人として例外は無く、みんな太陽に殺される。死とは無ではなく、太陽から飛び出した生命の火の粉が再びその太陽のもとへと還っていく、その過程に過ぎないのではないか。
 今、一つの生命が太陽のもとへ還ろうとしている。それを祝福するかのように轟々と生命の合唱が空を覆い尽くす。蝉が落ちていた。彼の身体を包み込む赤い炎、その太陽の輝きを私は確かに見たのだ。