精神と人が言うとき男であれ女であれその精神の持ち主は人間(厳密に言えば大人)だろう。猫の精神とか蜻蛉の精神とか人間以外の生物に対して人はその言葉を使わない。魂という言葉なら彼らにも使う。そのことからも精神と魂が違うのだということが伺われる。実際、精神と魂は全然異なるものなのだろう。
 精神という言葉が纏っている冷たい月の光のような響き、魂という言葉から聞こえてくるめらめらと燃える炎の音、太陽のにおい。まるで対局にあるその二つ。精神は観念、人工に属し魂は肉体、自然に属するのだ。そして人は自らの魂を自覚したときその精神を獲得する。自らの肉体、自然を客観的に見つめる非肉体的、非自然的なまなざし。それこそあの月から降り注ぐ精神の光である。しかしそれは同時に凍り付いた太陽(生命)の光なのだ。客観を手に入れる代わりに主観を失う。無限であり無敵である観念の翼が生えた代償にその肉体、自然を失う。感情を失う。熱を失う。形を失う。自らの生を失う。だから精神はいつもその実存、血と肉、魂に飢えている。孤城に住む吸血鬼。満月に吠える狼男。或いは我の尾を我で噛む白い蛇。