物語というもの

 物語と殊更声を大に言わなくても「私」という認識の主体は常に物語の世界に存在している。それどころか「私」が存在可能なのはその物語の世界、語ることが可能な世界に於いてのみである。語ることの不可能な、非物語の世界は「私の中の他者」彼女の生息域である。ではこの物語の世界の中にある人がそう呼ぶところのいわゆる物語とは一体何なのか。庭の中に造られた庭とも言うべきその言葉の世界。それは或る探求なのだ。形のないものへと形のあるものを使ってたどり着こうとする、物語によって物語れないものを物語ろうというそれは試みなのだ。中世、形のないものが見えなくなり、もはや神話を語ることが出来なくなった暗黒、そのとき以来始まった伝統、語り得ぬ神話を「私」の認識出来る世界に於いて言葉で語ろうとする試み、それが物語なのだ。

 子供たちにとって物語はこの世界を解釈し認識するための最も重大な方法の一つである。いや物語を耳にしまた読むことが彼らにとって生きることなのだ。小鳥がその翼を使って大空へと飛翔するように子供たちは物語を使って認識の大空へと飛翔する。物語への意志が生への意志へと直結していた幸福な時代。しかし段々とその両者は乖離していく。もはや物語を聞き読むことが彼にとって生きること、「この世界の現実」を認識する方法ではなくなってしまう。素朴な一個の物語ではとても太刀打ち出来ないほど盤石で巨大な揺るぎない物語、大人たちが創作した「社会」があることを彼らは知る。こうして子供たちの物語と大人たちの物語、二つの対立が生まれる。大人たちは「教育」という手段によって彼らの物語を子供たちに強制する。一方子供たちもただ黙ってその押し付けを受け入れる訳ではない。わかりやすい反抗的態度はもちろんのこと、あらゆる隠れ穴を探してそこへ滑り込み彼らの物語を守ろうとする。しかしそんなことさえも大人たちは見通している。狡猾な彼らはその隠れ穴にこそ罠を仕掛ける。つまり子供たちが手を伸ばす物語の中に毒を混ぜる。それはあらかじめ最後には人間という正体をバラすことを前提に子供たちの前へと立ち現れてくるサンタクロースである。大人たちの物語「社会の現実」の実在その優越を知らしめるために敢えて与えられる大人たちによって計算され尽くした子供たち用の物語。子供たちは「教育」よりも更に強力なその毒に冒され彼らの物語の無効性を知りやがては皆完全敗北して顔のない大人たちの巨大な物語「社会の現実」に飲み込まれていく。
 しかし全く反対の目的で創られた物語、子供たちがそこに毒を混ぜ込んだ大人たち用の物語もあるのだ。それこそが文学。真の文学と呼び得るものである。あらかじめ最後にはサンタクロースという正体をバラすことを前提に大人たちの前へと立ち現れてくる人間。