稲葉真弓「エンドレス・ワルツ」Ⅲ

阿部薫のサックスにも鈴木いづみの存在にも両方ともに言えることはそれが決してBGMやエキストラ、背景にはならないということだ。両方とも完全に主人公なのである。死の氷に包まれた極北ではそのようにして過剰に存在していなければ(エロスに溢れていなけれ…

稲葉真弓「エンドレス・ワルツ」Ⅱ

凍らせたい(形を作りたい)男と氷になりたい(形になりたい)女。稲葉真弓は「エンドレス・ワルツ」でその二人、薫といづみに分裂したエロス(形、物への意志を飲み込んだ生へ)の意志を小説という形で再び結びつけ凍らせた(言葉にした)。印象的で且つ象…

稲葉真弓「エンドレス・ワルツ」

アンナ・カヴァンは「氷」であらゆる生命の炎を凍らせて物と化してしまう氷の脅威を描こうとしたがその恐るべき氷の発生源のような男がいる。顔を歪めて背中を大きく仰け反り彼が吹き鳴らす破壊そのものの音はまさに氷の息吹で触れるものすべてから熱を奪い…

自然、あらゆる生物は一見自由奔放に見えるが実は厳粛な絶対の戒律、その種の形を遵守している。薔薇が薔薇の、白鳥が白鳥の形を逸脱することは決してない。彼らの抱えるタナトス、物への意志はあらかじめ完了してしまっている。だから彼らはそのような死へ…

高い枝から低い枝へと尾長の鳥が飛び降りる。後ろにはまた尾長がいてその後ろにも。黒い頭が黒い頭に続いて空色の長い尾を振り振りぽんぽんと飛び降りる。街ではだいぶ前に姿を見なくなったが彼らはここに居たようだ。功刀’(くぬぎ)と小楢(こなら)の樹の…

アンナ・カヴァンの「氷」

襲来してくる物(死)の意志と「私」の戦いということを考えるとき、私は少し以前に読んだアンナ・カヴァンの小説「氷」を思い出さずにはいられない。世界の何処へ逃げても追い掛けてきて冷酷に容赦なく人々を凍らせてしまう「氷」。主人公の「私」はその絶…

鏡に映るオブジェ、物としての肉体をベルメールの人形たちは思い出させてくれる。それは希臘の壊れた彫刻も同じである。もはや何の意味も持たない語ることが不可能な物そのもの。しかしベルメールの人形からは希臘の壊れた彫刻にはない仄か暗いエロティック…

戯れにひげ剃り用の白いムースをずっと無くなるまで出し続ける。ぷしゅぷしゅと時折掠れたガスの抜ける音を立てながらマシュマロ状の塊が既に積み重なり融合して異様な形を形成しているその集合体のもとへと静かに垂れ落ちる。蒼い蛍光灯の光の下、幾つもの…

蝕まれた母樹

シュルレアリスム(超現実主義)と人形というと私にはドイツの人形作家ハンス・ベルメールの人形が忽ちに思い出される。しかし人の形を模して造られた物を人形と呼称するならばベルメールの人形を単純に人形と言い表すことには少なからず違和感がある。何故…

頭部や両腕の欠落した胴体のみの希臘彫刻。悠久の時の流れによって無惨にも破壊されてしまったそんな彫刻作品の方がほとんど完全に当時の形のまま現存している彫刻作品よりも真に迫る力をもって目に焼き付いてくるのは私だけだろうか。 破壊された彫刻作品と…

タナトス

生物の中にある物への意志。タナトスと呼んでもいいだろう。タナトスが人間特有のものだと思われるのは人間がそのタナトスを認識するからであり他の如何なる生物にもタナトスは存在している。タナトスを持たずエロスしか持たないのなら、つまり物への死への…

鏡の中の人形

鏡を見る。そこに在るのは「私」でもなく「私」の肉体でもなく「私」と「私」の肉体の反映物、「私」と「私」の肉体に従順な人形である。何処へ探しにいかなくても人形はそこに居たのだ。今まで私は鏡を見たときにいつも奇妙な違和感、そこに私ではない誰か…

鏡としての人形

人形願望(或いはオブジェへの意志)。それは誰かの人形になりたいという「私」の意味付けのための隷属の願望とは別に、私の中の物の部分の純粋な反映への意志、私の死への意志願望である。人形は物であるからその本質的に誰のものでもあり誰のものでもない…

物には物の意志があるのかもしれない。それは物が物で在り続けようという意志である。人形は絶対に意志や感情を持たない。しかしそれこそ揺るぐことのないその人形の意志だと言えるのではないか。生物が生物であり続けようと意志するように物は物であり続け…

「私」が眠る。夢を見ているのは「私」の中の他者、無意識であり肉体の純粋認識者「彼女」。しかしその「彼女」すらも深く眠るとき、私はこの世界を純粋に映し出す鏡となる。その本当の夢、夢のなかの夢を思い出すことの出来る人、それが預言者なのだろう。 …

彼が死ぬ。彼が認識者から反映物となる。死体に対する畏怖恐怖の感情には死や暴力の認識それよりもこの純粋な反映物、神の意向を映し出す媒介物、鏡としての死体に対する認識の方がもっと前でもっと深く影響しているのではないだろうか。死体は認識を超えた…

認識ではたどり着くことの出来ないこの世界のありのままの真実を映し出す反映、それは非認識であり物である。物はそれ自体意思を持たず何も認識しないが故にこの世界の真実をありのままに反映する鏡である。あらゆる宗教の信仰は素朴な偶像崇拝から巫女やシ…

人形

私は人形ガラスの瞳は何も見ず空洞の耳は何も聞かない虚ろな私は人形私は何も考えず何も感じないただ永久に世界を反映する何者も裁くことなく何者にも私は裁かれる小さな虫でさえ私を噛んで自由に私を弄ぶことが出来る反撃の手足を私は持たないこの白く細過…

何故、北を目指すのか。何もない、あらゆる生命が凍り付き、時間もないその場所を。冬に咲く花たちはきっとその理由を知っている。死、死すらないその死の世界。それは認識に汚されていない純粋な反射の世界。水が凍り或いは雪となり形づくられる美しいアラ…

「私」は私(肉体の意識)を追う影である。文明開化とともにこの国はその「私」の更に進行した形態の西洋版「私」を輸入した。しかしそこにその「私」の創造主である絶対的な「神」の概念は含まれてはおらず、つまりそれは製造元不明不在の「私」根拠のない…

そも「私」とは一体何ぞ。認識の認識者である。見ていることを見ている主体である。生きている主体そのものではなく生きているその主体を認識する主体である。故に「私」が認識するのは常に過去である。「私」が見る、ことは出来ない。「私」は常に見た、で…

他人という神

我思う故に我在り。私は認識している。だから私は存在している。このデカルト流「私」の存在根拠も私の中の他者の発見によって根本的に揺らいでしまった。それはつまり我思う(認識している者)と我在り(認識を認識している者)は別の存在だということだ。…

どんなに静かな日でも森に行けば風の音が聞こえる。数え切れないほどの木の葉が蜘蛛網で掬うように風の音を掬うのだ。それはいつも波の音のように聞こえる。森の中に居ながらに私は海を歩いているように思う。深い海の底に沈み込んだ貝のような或いは深海魚…

寒椿

轟々と鳴る北風が乱暴に次のページを捲る少しずつしかし急速に薄れゆく景色喪われていく言葉木々は葉を落とされ落ちた葉は干からびて蝶たちの黒い棺を隠すかつての王太陽も力尽き今は真昼の月と化して瞑想的な観念的な白い光で世界を包むばかり知らぬ間にし…

人が旅に出るのは繰り返される日常の「意味」の堆積そのヴェールによって見失ってしまった「表面」を取り戻すためだ。知らない国や知らない場所は旅人の彼にとっては当然未知で、未知に接している限り彼はまだ「意味」へと変換される前の人や物や世界のあり…