2020-01-01から1年間の記事一覧

何故、北を目指すのか。何もない、あらゆる生命が凍り付き、時間もないその場所を。冬に咲く花たちはきっとその理由を知っている。死、死すらないその死の世界。それは認識に汚されていない純粋な反射の世界。水が凍り或いは雪となり形づくられる美しいアラ…

「私」は私(肉体の意識)を追う影である。文明開化とともにこの国はその「私」の更に進行した形態の西洋版「私」を輸入した。しかしそこにその「私」の創造主である絶対的な「神」の概念は含まれてはおらず、つまりそれは製造元不明不在の「私」根拠のない…

そも「私」とは一体何ぞ。認識の認識者である。見ていることを見ている主体である。生きている主体そのものではなく生きているその主体を認識する主体である。故に「私」が認識するのは常に過去である。「私」が見る、ことは出来ない。「私」は常に見た、で…

他人という神

我思う故に我在り。私は認識している。だから私は存在している。このデカルト流「私」の存在根拠も私の中の他者の発見によって根本的に揺らいでしまった。それはつまり我思う(認識している者)と我在り(認識を認識している者)は別の存在だということだ。…

どんなに静かな日でも森に行けば風の音が聞こえる。数え切れないほどの木の葉が蜘蛛網で掬うように風の音を掬うのだ。それはいつも波の音のように聞こえる。森の中に居ながらに私は海を歩いているように思う。深い海の底に沈み込んだ貝のような或いは深海魚…

寒椿

轟々と鳴る北風が乱暴に次のページを捲る少しずつしかし急速に薄れゆく景色喪われていく言葉木々は葉を落とされ落ちた葉は干からびて蝶たちの黒い棺を隠すかつての王太陽も力尽き今は真昼の月と化して瞑想的な観念的な白い光で世界を包むばかり知らぬ間にし…

人が旅に出るのは繰り返される日常の「意味」の堆積そのヴェールによって見失ってしまった「表面」を取り戻すためだ。知らない国や知らない場所は旅人の彼にとっては当然未知で、未知に接している限り彼はまだ「意味」へと変換される前の人や物や世界のあり…

それが実在するもの「本物」であるか見極めるにはそのものを静謐な冬の森の中に於くだけで十分だ。「本物」実在するものはその清らかな沈黙の中に溶け込むことが出来る。「偽物」創られたものは不協和音を撒き散らし沈黙を汚してしまう。あらゆる企図作為を…

物語というもの

物語と殊更声を大に言わなくても「私」という認識の主体は常に物語の世界に存在している。それどころか「私」が存在可能なのはその物語の世界、語ることが可能な世界に於いてのみである。語ることの不可能な、非物語の世界は「私の中の他者」彼女の生息域で…

まだ数えるほどしか言葉を知らない子供は認識の認識者「私」によって認識出来る領域がごく僅かで、だから彼は膨大な夜の暗黒に包まれている。怪奇なしかし神秘に溢れた中世の世界。今の意識、この「私」が誕生したのも実はその中世、子供時代の始まりなのだ…

漢字とゴシックの神秘

漢字というものが纏っている何とも言えぬその神秘性。それこそ形ないものを形あるもので探り続けてきた中世以降の日本人の世界解釈乃至現実認識の結果と言えよう。薔薇が薔薇の花を残すようにこの日本に残された漢字はこの日本の花である。まさに百花繚乱の…

形ないものを形あるものによって探る。純粋認識の世界を認識の認識者「私」によって認識しようと試みる。その結果として誕生する形はその試みが成功するならばそれは単純な形ではなく、形なく且つ形あるもの、純粋認識と「私」の認識が一つとなった認識、太…

石(保存)の思想と炎(生命)の思想

「若きパルク」こんなに長い詩を読んだのは初めてでまず何より圧倒されたのはその構成の力である。パリのノートルダム大聖堂を目の前にして感嘆した高村光太郎のように、クラシックの音楽を初めて耳にした明治の人々のように、また沖に浮かぶ巨大な黒船を目…

今、万葉集に関する本を読んでいる。そこに集められた歌は驚くほど素朴で透明で、如何なる退廃とも無縁、悲しみや官能さえも清らかで健康的な力に溢れている。黄金の太陽に愛された人々。まさに人間の純粋な認識者たちだ。そこにはまだ作為や意図、人工への…

見られることは見ること

いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。 日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれ…

純粋認識。しかしたとえば植物は光を認識する。ということは光と非光を識別しているということであり、そのことから彼らも或る観点を通して世界を認識しているということがわかる。同時にその観点を持つ者が認識者だと言うことが出来る。その観点を持たない…

森はすっかりと冬の顔をしていた。降り積もった朽ち葉に寒々しい裸の木の枝、陰影が濃く粗い樹の肌ばかりが目立つ。わずかな風もなく鳥たちの鳴き声も聞こえない。朽ち葉を踏む靴の音が朽ち葉を踏む靴の音へと重なる。そこに汚れたものは何一つとしてなかっ…

芸術と非芸術

芸術作品と非芸術作品を峻別する双方の最も大きな決定的な違いはその物が何かの手段であるかないかの違いである。芸術作品はその物が目的或いは純粋な結果でありそれは決して何かの手段として創られたものではない。何かのために創られたまた存在しているな…

感受性が高いというのはその名の通りで、それは物事を感知感受する能力が高いということで、よく物が見えよく耳が聞こえる、ありのままの純粋な認識能力が高いということである。子供は皆純粋認識者だから感受性が高い。大人はその純粋認識を認識する「私」…

蜂が花を見る。彼は花を認識している。しかし彼は自分が花を認識したことには気が付いていない。認識を認識する主体が蜂にはない。人間が花を見る。彼は花を認識している。忽ち彼は自分が花を認識していることに気が付く。つまり彼は認識を認識している。す…

単純な認識とその認識に対する私の認識、それをまた更に認識する私の外の他者の認識。この私の外の他者の認識は単純な認識と認識に対する認識が違うということに気が付いたときから発生する。いわゆる無知の知である。無知を自覚するのは私ではなく私の外の…

単純な認識。その認識に対する認識。しかし思考、思考と呼ぶのに値する思考は認識に対する認識をまた更に認識する主体の認識だと言える。ヴァレリーの若きパルクの己を噛む蛇を見ている我の意識である。それは私の中の他者の認識でもなく私の認識でもなく私…

人が普通自分が認識していると思っているその認識は純粋なそのものに対する認識ではなくそのものに対する認識の認識である。木の下に眠る猫を見る。それは純粋な認識である。しかし木の下に眠る猫を見ていると彼自身が気が付き意識するその認識、それは認識…

認識について

動物の怯え警戒という状態と人間の不安の違い。動物は訪れる可能性のある脅威そのものを認識し警戒しているのに対し人間は脅威そのものよりもむしろ脅威に曝された際の自分の状態について脅威、不安を抱く。簡単に言うならば不安に対する不安である。それは…

神秘、それはこの夜ではなくこの夜が必ず明けて朝が来るということだ。それはまるでこの夜そのものの意志、虚無そのものの意志、物質そのものに意志があるかのようである。しかし実際この夜に意志はあるのだ。でなければ明日の朝はやって来ないだろう。永久…

ヴァレリーの和解

ヴァレリーの詩を読み始めた頃、この人は決して眠ることの出来ない人だったのではないかと、彼の微睡み睡眠への憧憬を直感的に感じ取ったのだが、その感想は今も変わることなくむしろそれは強化されて、ヴァレリーにとって詩こそ覚醒、目覚めの極点の後に訪…

ランボーの見つけた永遠、日の沈む夕焼けの海。しかし溶け合って一つになっていた太陽=認識する者と海=認識される者は豊穣な夜の沈黙を経てやがて来たる朝に再び分け隔てられる。時間が産声をあげる。認識する者と認識されるものと。時計がまわり始める。…

永遠とは永続する時間のことではない。永遠とは過去と未来、認識に対する認識によって生まれる「私」と時間、その虚妄のヴェールが取り払われたときに立ち現れてくる今このときの現実そのものである。過去も未来も失った(それから自由になった)人間は永遠…

服を脱がす思想

男性が抱く女性の裸への欲望。彼の女の服を脱がし一糸纏わぬ彼の女の姿、彼の女の秘密、真実を目にしたい。それは人間の男性の性欲の根幹を成す一つの要素だと思われ、実際男性もそのような欲望が自分自身にあると思い込んでいるが果たしてそうだろうか?女…

それをやりたいからやる。その第一回目は純粋行為だと言える。しかし、二回目以降は?それをやったら楽しい、快楽が得られる、だからやる、意味が発生してしまう。彼は未来に発生する利益のために奉仕し、だから未来が発生し、時間が生まれ、彼はそのなかに…