考察

ヴァレリーの和解

ヴァレリーの詩を読み始めた頃、この人は決して眠ることの出来ない人だったのではないかと、彼の微睡み睡眠への憧憬を直感的に感じ取ったのだが、その感想は今も変わることなくむしろそれは強化されて、ヴァレリーにとって詩こそ覚醒、目覚めの極点の後に訪…

ランボーの見つけた永遠、日の沈む夕焼けの海。しかし溶け合って一つになっていた太陽=認識する者と海=認識される者は豊穣な夜の沈黙を経てやがて来たる朝に再び分け隔てられる。時間が産声をあげる。認識する者と認識されるものと。時計がまわり始める。…

永遠とは永続する時間のことではない。永遠とは過去と未来、認識に対する認識によって生まれる「私」と時間、その虚妄のヴェールが取り払われたときに立ち現れてくる今このときの現実そのものである。過去も未来も失った(それから自由になった)人間は永遠…

服を脱がす思想

男性が抱く女性の裸への欲望。彼の女の服を脱がし一糸纏わぬ彼の女の姿、彼の女の秘密、真実を目にしたい。それは人間の男性の性欲の根幹を成す一つの要素だと思われ、実際男性もそのような欲望が自分自身にあると思い込んでいるが果たしてそうだろうか?女…

それをやりたいからやる。その第一回目は純粋行為だと言える。しかし、二回目以降は?それをやったら楽しい、快楽が得られる、だからやる、意味が発生してしまう。彼は未来に発生する利益のために奉仕し、だから未来が発生し、時間が生まれ、彼はそのなかに…

ヴァレリー、特に海邊の墓地から感じられるのは彼の底知れぬ朗らかさ、明るい、生命力、火炎の力にみちている。ダヴィンチの手記を読んだときにも同じ朗らかさを感じた。陰惨な苦悩の影なんてそこにはない。そこには充実の仕事、永遠の少年の無償の飽きるこ…

生物と無生物を分け隔てているもの、それは認識である。ヒトや動物、生命を持ったものたちは視覚や聴覚、あらゆる器官によって何かを認識している。どんなに小さな微生物でもそれは変わらない。彼は何かを認識している。認識しているものが生物だ。何も認識…

勤行の時間

遊戯、完全なる遊戯は時計の外側にある。意味は勿論、如何なる結果もその間は求めることがない。だから不安もない。未来も過去もない。ただそこにあるのは光り燦く今この瞬間だけだ。 夏の終わり頃にポール・ヴァレリーの詩集を手に入れてから、その内の「若…

意味は未来に属する。意味を求めるということは未来への隷属である。そのとき彼は現在この瞬間の生を失い、時計の内側へと閉じ込められる。現在この瞬間の生は常にその時計の外側にある。生きるとはこの時計の外側へ脱出することである。それは瞬間でありま…

至高の瞬間、それはその瞬間のための瞬間であり、如何なる未来にも隷属しない純粋な行為の瞬間である。鳥は歌う。何のためでもない。何の意味を求めて或いは伝えるためでもない。歌うために歌うのである。思考も歌へと昇華したとき、その思考の持ち主はあの…

意味とは消費の証拠である。彼がそれを食べた証拠として彼から排泄される分泌物、それが意味である。意味を求め、消費することを訓練された人間は何を見てもそのものを消費し、何であれそれを一つの現実的な意味へと還元しなければ気が済まない。だから彼の…

教育によって子供たちはまず消費の訓練を受ける。事物を理解しそこに意味を真理を見出そうとする模範的な消費の態度の訓練。そこでは当然消費能力の高い者が表彰され推奨される。的確に素早く物事を理解出来る人間。消費能力と消費そのものが至上の価値とな…

科学精神とは或る対象の秘密を解き明かしていこうとするサディスティックな精神の態度であり、つまりその対象のことを正確に認識し消費していこうとする消費精神の態度である。近現代教育は真理を求めるその科学精神を基調としているので教育は自ずとサディ…

罠から抜ける

幼い頃、私はおっとりした子供で、今よりも遥かにゆっくりとしていて、だから私は優雅で上品で偉大で感受性豊かだった。しかしこの社会のめまぐるしさと長い時間付き合い、消費の快楽に骨の髄まで汚染され、私は慌ただしく落ち着きのない神経質な人間になっ…

阿片と消費

質を感じ取れなくなった人間はその不足を量で補おうとする。現代人が消費している物質や生命のかつてとは比較も不可能なその圧倒的な量の多さはそのまま彼らの質に対する感受性の劣化ほとんど死同然の没落を物語っている。速いということもまた量が多いとい…

強迫観念

人は継続して意識し続ける対象から現実感を享受し、その果実がたとえ有毒であっても、まるでたかる蠅のように、その果実を求めそこから離れられなくなる。いわゆる強迫観念と呼ばれるものもそこに萌芽する。 不安や憂鬱、そんな忌むべき暗い感情もそこに長く…

彼の見続けているものが彼にとっての現実になる。絶えず動き変化するものを見続けている者にとって絶えず動き変化するものが現実となる。そんな彼にとって動かず静止したものというのは非現実であり彼はその非現実に心が落ち着かず耐えることが出来ない。だ…

契約

路辺に咲いた蒲公英の花を見る。その場から過ぎ去る。振り返って再びその蒲公英の花を見る、或いは頭のなかにその蒲公英の花を思い描く、そのとき私は契約の印を押したのである。その蒲公英が私にとって現実だという契約の印を。契約は私がその蒲公英を現実…

すべての色が集まると白色になる。白は色の充溢であり飽和、色の自殺である。言い換えるなら、赤色であれ緑色であれ、色というものは白、完全な光そのものの欠損である。完全なものは目に見えない。感じ取ることができない。だから神は私の瞳に見えない。感…

休日の現実感

今日のような休みの日になると私は自分の部屋に引きこもりがちで、そうして自分の部屋で長くの時間を過ごしているとだんだん気持ちがそわそわと落ち着かなくなってくる。現実感が失われてくる。他の何処よりも意識が長く滞在し、それ故に他の何処よりも強く…

花の永遠

いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教と言えるものではないだろうか。 ーー硲 伊之助訳「ゴッホの手紙 中」より 生命とは皆水であり太陽の光と熱を反射する鏡である。暗…

揺り籠の喪失

わたしたちは、いろいろな罪をおかしたあげく、神から見捨てられた人間になってしまったのにちがいない。宇宙の詩をまったく失ってしまったのだから。 --シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」より 揺り籠、終わることのない反復への憧れ、法というものに対す…

揺り籠

揺り籠、ただの籠ではだめだ、赤ちゃんは落ち着かない。彼は泣いてしまう。揺れて、左に大きく揺れたらその同じだけ右に大きく揺れて、右に小さく揺れたらその同じだけ左に小さく揺れて、規則的な幅で揺れていなくては赤ちゃんは落ち着かない。赤ちゃんが求…

SNSの現実感

SNSというものも現代人がその意識の多くを割いて滞在させている場のひとつである。電車のなかでスマホの画面に釘付けの彼らたち。その半分以上はSNSをしているのではないだろうか?電車のなかで彼らの様子を眺めているとリルケの「マルテの手記」の図…

現実感の罠

意識の滞在する時間、その量に応じてその対象に感じる現実感は強くもなりまた弱くもなる。そのものと触れ合い、そのもののことを思い続けることによってそのものの現実感が増し、そのものが彼にとって重要なものとなる。しかしそこには危険な罠が潜んでいる。…

現実感というもの

現実感を覚える世界と本当の現実はまるで違うものだ。現実感などはいい加減なもので、結局その強さは対象となる世界にどれだけの時間彼の意識が滞在したかによって決まる。意識の滞在時間が長いほどその場所空間或いはひとりの人物が彼に与える現実感は強く…

根の喪失と他人の出現

私にとっての絶対的な他者、それは神である。私だけではない。人類、この地球宇宙に存在するありとあらゆる生物及び無機物にとっての他者、それが神である。しかし近代以降、西洋ではその神が死に、つまり絶対的な他者を喪失した。するとどうなっただろうか…

奴隷と主人

完全な服従の状態に達した被造物は、それぞれが、この世における神の現存と、知と、わざとの、独自な、唯一の、かけがえのないありようを示す。 ーーシモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」より 奴隷と主人。一日24時間365日完全に肉体的自由を奪われている…

奇蹟ということ

十字架上の苦しみのさいごの刹那に見捨てられること、どちら側にも、なんという愛の深淵があることだろう。 ーーシモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」より 或いは反対に彼の絶対孤独を証明するために彼は目の前にある石を割ろうとするかもしれない。私と目の前…

石を割るということ

目の前に一個の石が落ちている。私はその石ではなく、その石も私ではない。私がどんなに割れろと念じても決してその石は割れない。私の意思はその石に通じない。それはその石が私にとって他者であるからだ。 とはいえ私がその石を掴み取り、何度も何度も他の…